4、正義の社会契約論
今回は冒頭で、前回紹介したプレゼンテーション組織TEDにおける弁護士のスピーチを、その受講生がスピーチの全文を配りながら、
「貧困の対極にあるのは正義である」について
のタイトルで、素晴らしい発表をしてくれました。
TEDはTechnology Entertainment Design の略で、アメリカのカリフォルニア州モントレーで年一回、講演会(TED conference)を主催しているグループで、学術・エンターテインメント・デザインなどさまざまな分野の人たちに、プレゼンテーションの機会を与えています。
この受講生が取り上げたのは、米国の黒人弁護士Brian Stevenson(ブライアン・スティーブンソン)による「司法の不公正について話さなければなりません」(We need to talk about an Injustice)です。
スティーブンソンは
「この国の司法制度は貧しくて、潔白な人よりも、お金を持っている罪を犯した人に、より軽い処罰を与えています。罪の有無ではなく財産によって処罰がきまるのです」
と話し、例として、彼が調べたところでは
「確認した死刑囚の9人に1人が実際には潔白な人でした。…驚異の冤罪率です」
だといい、その多くが黒人を中心とした貧しい人たちなのだそうです。
この受講生は、
「この国の多くの地域で、貧困の正反対に位置するのは富ではないという世界になっていると確信しています。貧富の世界ではないのです。私の考えでは多くの場所で貧困の反対に位置して遠いのは正義という世界になっている」
というスティーブンソンの言葉に強い興味を抱きます。しかし、受講生は「貧困の対極にあるのは富ではなく、正義である」という言葉にまだ納得がいかず、調べを進めます。そして、ノーマ・フィールド著『小林多喜二』(岩波新書)の本文56頁に、まったく同じ言葉「貧困の対極にあるのは富ではなく、正義である」が引用されていることを知り、さらにこの言葉がブラジル出身の神学者・哲学者レオナルド・ボフ(ジェネジオ・ダルシ・ボフの著書中に引用されていることにまで至るのです。
受講生の結論をそのまま引用させていただきます。
「この言葉をどのように理解するのかは難しいことですが、貧困と正義が反対語の言葉として捉えるのではなく、司法の不公正な仕組みや人種差別、貧困に無関心な社会の中で、貧困層は人間としての尊厳が守られず、時として排斥される社会に置かれていることから、正義は遠いところにあるものという考えは、私にとって受け入れることが出来るものであります」
さて、みなさんはどんな思いで、この弁護士の話を聞くでしょうか。
このときのスピーチは次のTEDサイトなどで日本語の訳付きで観ることができます。
http://www.ted.com/talks/lang/ja/bryan_stevenson_we_need_to_talk_about_an_injustice.html
<レジメ>
「社会正義については長年にわたって議論されてきたが、18~19世紀のヨーロッパにおける啓蒙運動の時代に、ヨーロッパとアメリカで起こりつつあった変化を求める政治状況と、社会経済的変容によってその議論は大きく進んだ。当時の急進的な哲学者の間には正義の推論に関して二つの異なる考え方があった。この二つのアプローチの違いは、もっと注目されるべきだと私は信じているが、それほどには注目されてこなかった。…一つのアプローチは、17世紀のトマス・ホッブスに始まり、…カントがさらに発展させた『契約論』的な考え方と関連している。…アダム・スミス、…カール・マルクス、…これらの思想家たちは、正義について非常に異なった考え方を持ち、社会の比較を行うために非常に異なった方法を提案した…」
(アマルティア・セン『正義のアイデア』pp.38-39)
トマス・ホッブスは、国家を怪物に例えた『リヴァイアサン』のなかで、『契約論』の考え方を明確に打ち出した。ホッブスによれば、「国家」(コモンウエルス commonwealth)とは人間を模倣した「人工人間」であり、「主権」(ソヴリンティ sovereignty)が人工人間の「魂」、「富」は体力、「法」は意志、etcとされる(永井道雄責任編集「世界の名著28ホッブス」中央公論社、p.53)。その国家は、次のように「契約」の考え方に沿って定義される(同pp.196-197)。
「それは一個の人格であり、その行為は、多くの人々の相互契約により、彼らの平和と共同防衛のためにすべての人の強さと手段を彼が適当に用いることができるように、彼ら各人をその(行為)の本人とすることである」
「そして、この人格を担う者が≪主権者≫と呼ばれ、『主権』を持つといわれる、そして彼以外のすべての者は、彼の≪国民≫と呼ばれる」。
ちなみに、commonwealth を文字通りに訳せば、「国民の幸福」「国民の富」となる。
契約についての考え方は、すでにソクラテスのなかに存在していたことは触れておく必要があるだろう。ソクラテスは『クリトン』のなかで、脱獄を進める弟子たちの勧めに対して、次のように語っているのである。
「ソクラテスよ、まあ一ついってくれ、いったいお前は何をしようとしているのだ。お前は、お前がしようとしている行動によって、われわれ法律と国家組織の全体とを、お前の力の及ぶかぎり、破壊するというちょうどそのことを企画しようとしているのではないかね。…ソクラテスよ、われわれとお前との間の合意(homologia 同意、承認、約束、協定 agreement)はそんなことだったのか、それとも、それはむしろお前が国家の下すいかなる判決にも服するということを誓ったものではなかったのか」(プラトン『クリトン』久保勉訳、岩波文庫、p.79)
ソクラテスは、自分を育ててくれたのは国だからそれを裏切ることはできない、と語ってクリトンの提案を断り、「悪法も法である」の有名な言葉を残して毒杯を飲んだ。