4の付記 「響き合う」議論

 二人の受講生の提題をめぐって、本日は実に楽しく有意義なおしゃべりができました。デカルトの「われ思う故にわれ有り」やパスカルの「考える葦」も、一つのアイデアに過ぎないとして、西洋の哲学は論理的、との言い方に反論する受講生は、神の問題にも踏み込みました。キリスト教に象徴される唯一神信仰が、絶対者の存在あるいは究極の原理があることを認め・求める西洋哲学の土壌を形成してきたことを説き、仏教に象徴される東洋の多神教との違いを指摘しました。

 梅若玄祥を俎上に載せた一人は、競演の葉加瀬太郎作曲の第四曲のもとでの梅若の即興舞いの見事さに感動したこと、動きをできるだけ少なくしたいとの梅若の思いがテレビ放映という制約のなかで必ずしも実現しなかったこと、両者がほんとうにマッチしたと思われるのはバッハのシャコンヌでの舞いぐらいだったこと、などを話してくれました。

 以下は、二人の話に触発されたさまざまな声です。

「ウパニシャッド哲学や仏教・法相宗の成唯識論(じょうゆいしきろん)を読んでいると、東洋哲学に論理がないなどとはとんでもない話だと思う」
「アウグスティヌスとキリスト教のことを考えると、西洋では知を信が被っている感じがする。これに対して、東洋の仏教などは、むしろ知が信を被っているのではないか。あるキリスト教関係者は、仏教の人から見るとキリスト教は随分と幼稚に見えるのではないでしょうか、と言っていたことを思い出す」
「哲学は人間が存在する以前から、この宇宙にあったのではないかと思う。神のような存在は、人間が登場してから生み出されたものではないか」
「梅若玄祥の話を聞くと、響きというものを感じる。舞い手と観客が響き合う感じ」
「実は能の謡曲をやっておりました。能も歌舞伎も、演じる人たちの境地は窺い知れないところがありますが、どちらも長い時間をかけて先人が築きあげた型を持っている。この型にいかに合わせるかを後継者たちは目指すが、『型を破った』と思えるときがある、という話を聞いたことがあります」
「冒険家というのは、死という境界に向かって限りなく近づいては離れる人種のような気がします」

 会食時に、ある人の個展を見た画家の一人が「君の描く絵はいつもは日の丸弁当だが、今日はその弁当と全体が響き合っているね」とコメントした話を、響きの話から思い出した受講生が紹介してくれました。

 新聞が伝えている梅若の言葉「古典を化石にせず、生きた古典にしたい」について付言しておきます。古典とは、永遠化された一つの価値と言えるでしょう。それはいつまでも死なずに生き続ける、ある種のイデアだと思うのですが、演者が「そのもの」を再現できなければその芸は死んだまま、つまり化石になってしまいます、演者がその価値を蘇らせることができるとき、その化石は「生きた化石」として復活するのです。

 遺伝子DNAは、読み取って再生させるメカニズムがなければただの情報列に過ぎません。IPS細胞は化石化した体細胞DNAから組織を復元できる“生きた化石”とも言えるのです。
皆さんの話がまことに響き合った今回のような講座を常態化できれば、と願っています。