4の談論から  メディアは一つのソクラテスである

 前回は、メディアに対して、みなさんからさまざまなご意見が寄せられました。それらを踏まえながら、メディアの本質とは何なのか、を再考してみたいと思います。

 配布資料W.リップマンの『世論』には、「ニュースと真実とは同一物ではなく、はっきりと区別されなければならない。これが私にとってもっとも実り多い仮説である。ニュースのはたらきは一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきはそこに隠されている諸事実に光をあて、相互に関連づけ、人びとがそれを拠りどころとして行動できるような現実の姿を描き出すことである」(p.214)と書かれています。ここで言う真実とは「truth」すなわち「true」であること、日本語で言えば「本当のこと」や「真相」と言ってもいいでしょう。

 プラトンの図式で言えば、ニュースによってもたらされたさまざまな現象は、洞窟に映された像であり、真実は人形使いによって演じられている現実にほかなりません。私たちは「伝えられるニュース・解説など」を通じて、「現実に何が起きているのか」を読み取ろうとします。「など」としたのは、新聞やテレビ・ラジオ・週刊誌などのマス・メディアだけでなく、ユーチューブやSNSなどの個別性の高いネット情報、さらにはクチコミといったさまざまな媒体の合算によって、私たちは日々、現実を読み取ろうとしているからです。

 どの媒体に多く依存しているかで、その人の抱く「現実」はかなりの違いを見せます。社会の現実は権力と金に支配されており、メディアもまたその例にもれない、と映り、著名なメディア人が宗教団体の広報誌に吸い寄せられていくのを苦々しく見る人。マス・メディアのある種の世論形成力をそれなりに認める人。ユーチューブなどのSNS型メディアの世界で生きている人たちの存在によって、マス・メディアの世論形成力が揺らいでいる、と見る人もいます。

 リップマンが「新聞は、そろって性悪でないし、それほど深いたくらみを抱いているわけでもない」(p.218)と言うとき、これはメディア全般にあてはまると思います。同時に、「真実の全貌を提供する」と思い込んだとしたらそれは「誤っている」との指摘(同頁)は、いまや現代人のメディア不信によって旧知の事実になっていると言えるでしょう。とすれば「私たちは、ニュースの有限的性格と社会の無限の複雑さを捉えきれない」とするリップマンの声(同頁)に、真摯に耳を傾けるべきなのではないでしょうか。

 私たちがさまざまな媒体から得ている情報は、イスラム国と人質殺害事件のような大きな事件の場合だけでなく、いかなる事件にしてもごく限られたものであり、私たちの心に組み立てられた「現実」も所詮は限定された「イメージ」(影)に過ぎないということなのです。
 
 大事なのは、すべてのメディアが、私たちに「もしそうならば、どうなのだ」「ほんとうにそうなのか、実は違うのではないのか」と問いかけていることにあるのではないでしょうか。真実は何かを見抜く目を、メディアは絶えず私たちに突き付けてやみません。それは、ほかならぬソクラテスの問いかけそのものだと思うのです。