4,小林秀雄の「考える事」を考える

 前回もまた、皆さんから刺激的なお話を多々伺うことが出来ました。
お一人は、以前から伊藤仁斎に注目しており、京都の古義堂あとにも行かれたそうです。ロシア・モスクワでの滞在歴3年の方は、「ロシア人はとにかくおせっかいで、小林秀雄の随筆「人形」のような場面に出くわしたら、話かけるに決まっているでしょう」。
 「女性は母性に由来するいとおしさを備えており、その感情からの思いやりを込めた何かするのではないか」「そのような場面を眼にしたら、あの席に座らないように、座らないようにと、ドキドキしながら通り過ぎることを期待してしまうでしょう」「私は両親がいつも見本にしなさいと称えていた兄を戦争で亡くしました。あの食堂車の場面は、両親の思いが浮かんできて身につまされます」。

 お一人は、新聞に登場しているさる著名人の言説批判を通じて、「眼光紙背に徹す」の一言を頂戴しました。この講座「哲学サロン」の紹介文に「伊藤博文が有馬温泉の旅館に直筆でしたためた『高談娯心』(高い志で話をするとお互いが楽しくなる)を信条とする」と書いてあるのですが、実はこの玉言もこのお方から頂戴したものなのです。
 
 講座が終わったあとの食事会で、お一人から「いまの講座は高談娯心の話がなくて面白くない。一人一人順番にしゃべらすのではなく、話したい人に十分話させたらどうか」とのクレームが出ました。これに対してお一人が、「いやあ、私は反対の意見だ。常識について皆さんがそれぞれ語ったことを聞いて、皆さんの表現の豊かさに仰天しました」。

 さらに、講座そのものに魅力があるかどうかにまで発展し、「講師に魅力があるかどうかはさておき、この講座への参加を続けているのは、参加している人たちの人柄と話が魅力的だから」とは、お一人の感想でした。
 実のところ、講師である私が講座を続けてこられたのは、ひとえに受講してくれる方々の話に惹きつけられているからでして、本音を言えば、むしろ皆さんのお話を聞くのが楽しみで、講座を続けているのです。
 
 余談はさておき、本日のお題「考える事について」に参りましょう。小林秀雄は、今度は本居宣長(1730-1801)まで出して、「考える事」について論じています。毎度のことに、いにしえの哲人たちの言葉を巧みに転がして、「考える事」を「考えている」わけですが、日本文化の底に流れる知の深みに気づかされる思いです。
 
 まずは、宣長によれば「考える」の元は「かんがふ」で、これは「むかえる」ことを意味する「かむかう」から来ていると言います。「かれとこれとを、比校(アヒムカ)へて思ひめぐらす意」となって、小林は「私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」意となる」と解釈するのです(p.84)。つまり、何かを考えるという事は、その何かと向かい合う、という事になります。
 
 これは、なんとフッサールの志向性、ではないですか。何もない何かを考える事はできず、考えるとは必ず何かを考える、そのことを単純に表現したのが志向性ですが、この講座でも以前、「考えてください」といきなり皆さんに言って実験したことがあります。これを受けてお一人から、「考えるは、他動詞なのですね」と核心を突く言葉が出てきたことを鮮明に覚えています。
 
 今回のテーマからすれば「小林秀雄が考えていることとは『何か』」を考えることになりますね。小林は、荻生徂徠(1666-1728)が「弁名」で使っている「物のあはれ」の「あはれ」は、宣長によれば、もともと「心の感じ出る、なげきの声」だそうで、言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かではなく転じて行くもので、これを宣長は、言葉に隠れた「下心(ごころ)」だというのです(p.87)。
 
 言葉に心がある、という発想は、なかなか興味深いですが、小林はこの発想がいたく気に入ったようで、「あはれ」なる言葉がこの「下心」によって「あはれを知る」「あはれを見す」などと使われるようになった、と解釈するのです。
 言葉の内実が固定したものではなく、流動して変容して行くことは、とくに徂徠や宣長の言を待たずとも、私たちのよく知るところですが、「下心」の表現は実に楽しいですね。
 
 ただ、ここで疑問が生じます。小林秀雄は、このエッセイ「考える事」で何かを考えているのでしょうか。彼は、考えるという事がどのようなことなのか、荻生徂徠と本居宣長をヒントに考えを進めてきたように見えます。しかし、彼のしていることは、荻生徂徠の言っている事と本居宣長の言っている事の紹介ではないでしょうか。「書かれている事」を通じて彼らの考えていることが何かを、小林秀雄が見出していく道筋を私たちは知ることが出来ます。その彼らの「考えている事」が実に興味深いので、ついつい引き込まれてしまいますが、さてさて、では小林本人が「何かを考えているか」と問うてみると、どうもあやふやになるのではないでしょうか。

 「彼(徂徠)は…自己の来し方、行く末を考える事をモデルとして、一般に歴史とは何かを考えるに至ったのである」(p.93)との結論は、徂徠の書き物を探査した結果、小林が見出すことになった事実の表現です。つまるところ、小林秀雄の「考える事」とは、彼が常に随筆の素材としている伊藤仁斎や荻生徂徠、本居宣長ら先人が考えていたこととは何かを調査することにつきるのではないか、そんな気がいたします。

 ようやく、本日のほんとうの主題「皆さんの考えている事」に入ることができそうです。考えている事には「過去」「現在」「未来」の三つのフェイズがあります。

 過去は言うまでもなく、記憶をたどる中で登場する「考える事」です。そこには、風景、人々との会話、読書の中身、それぞれの場で浮かび上がった感情、などが含まれています。現在は、目の前に展開する事象、例えばこの講座で誰かが話しているときに入ってきた事務員のCO2検査の風景など、時々刻々と変化する「いまの事」を巡って、瞬間的に私たちは何かを考えています。未来は、お昼に何を食べようかから、いずれくる死に対する断捨離プランなど、多様な思いの集合体です。

 「小林秀雄が考えていないなんてとんでもない、彼の考えている事はこれだ」から、普段皆さんが考えている事、見かけた新聞記事を読んでの感想、など、何でも構いません。是非ともお互いが楽しくなる「高談娯心」のお話をお願いします。