4,私は不気味なまでに潔癖である

 前回は、皆さんからたくさんの「泉」をいただきました。「子育てのときは明日が私の泉、今は何が起こるかわからない未知が私の泉」「経営を『わたしごと』とする稲盛さんのアメーバ経営を導入したら、それが泉となって一人一人の社員が生き生きとしてきた」

 お一人からは、俳優の三宅裕司さんが力をもらったニーチェの言葉「すべての良い事柄は、遠回りの道を通って、目的へと近づいていく」をいただきました。目的は、その人にとっての「泉」ですね。

 お一人は、リースマンの『何のための豊かさ』(加藤秀俊訳、みすず書房、1964年原著刊行、昭和43年5月日本版刊行)という「問い」の答えを、ずっと探し続けている、との話をしてくれました。「豊かさという泉」の正体が何かは、いつか議論したいテーマです。

 本日のお題「私は不気味なまでに潔癖である」(『この人を見よ』八、p.37)は、だれと対峙しても、相手の潔癖度合いを嗅ぎわけてしまい、相手にわかってしまうような嘔吐感を覚えてしまう、その自分の性癖について書いたものです。そして、さらなる潔癖の高み、すなわち「独りの賎民も座していない高み」にある「喜びの泉」を目指す自分の心境を語った『ツァラトゥストラ』の第二部「賎民」をそっくり引用してこの八を締めくくっています。

 「賎民Gesindel」とはニーチェが「汚れていることに気づかない一般民衆」を指して使う言葉で、ニーチェは彼らに嘔吐感を及ぼすことをしきりに書き込んでいます。辞書的には、「無頼の徒」と訳されています(『マイスター独和辞典』p.572)。

 ニーチェは「喜びの泉」のことを、「不潔な輩や彼らの抱く欲情は近づくことのできない険しい高所」にあり、「おお、私はその泉をついに見出した、わが兄弟たちよ!この高所の極みにおいて、喜びの泉は私のために滾滾と湧き出ている!そして賎民が共に来て飲むこともない、一つの生命がここにある!」(『この人を見よ』八、p.39)と言い切り、それは「われわれの故郷である」と断じるのです(同p.40)。

 さらにニーチェは、こう付け加えます。
「そしていつの日か、私は一陣の風さながらに、彼らの間に吹き込むことにしよう。そして、私の精神をもって、彼らの精神の息の根を止めることにしよう。そう欲しているのは、私の未来なのだ」(同p.41)。

 ニーチェの意識そのものであるツァラトゥストラは、一陣の風になって、汚れ切った社会を変えようとしているのです。彼はこの章「賎民」を次のように締めくくります。

 「彼は己れの敵と、唾や啖を吐き散らす連中とに、かく戒めるのである。お前たちは風に逆らって唾を吐かぬように気を付けるがよい! と」(同p.42)

 私たちは、どう見ても、ニーチェからすれば「不潔で欲情の塊である輩」でしょうね。いや、そもそも、ニーチェのような潔癖な人間など、現代はおろか過去においてもいないのではないか、と聞きたいところです。あなたは、自分自身を、ニーチェの言う「賎民」ではないと、自信を持って言うことができますか。