5、ゲーテのハムレット

 ゲーテ(1749-1832)のハムレット論が小説の中に凝縮している、と言っても過言ではない『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』(「ゲーテ全集7」前田敬作・今村孝訳、潮出版社)のハムレット関連部分を前回はお配りしました。皆さん、どのようにお読みになったでしょうか。

 ゲーテ自身の幼少期の演劇体験を下地としたこの小説(1795.1~1796.10出版)は、1877年に寄稿された『ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命』の改作で、主人公を含めた演劇集団が、ハムレットをどのように解釈し、どのように舞台で上演したら最も“その精神”を体現できるか、関係する人々の心の動きと対話によって、巧みに伝えられて行きます。予想外の形で「亡霊」役が出現するなど、読み物としても実に面白く、なるほど「ギョエテとはかくなる人か」と、彼自身の演劇論を垣間見ることができる構成になっています。

 ここで展開されているハムレット論には、演劇を実際に組み立てるにあたって、二つの要素の取り扱いが議論されています。一つは、役者が演じている舞台には出てこない、背景となる遠景のことです。ハムレットがイギリスに放逐されることになり途中で海賊の捕虜となること、<本状持参者を殺すべし>との王からの手紙でローゼンクランツらが死んでしまうこと、などは「長編小説にひろがりと奥行きをもたせるのに役立っても、…主人公がなんの計画ももっていないこの戯曲の場合は全体の統一をいちじるしくそこねており、大変な欠点になっている」(p.258)と主人公に語らせ、ノルウエーの動乱だけを遠景としたシナリオに書き換えることになります。

 もう一つは、主役以外の脇役が余りにも多いので、ローゼンクランツとギルデンスターンの二人は一人で十分なのではないか、との声が一座から出てきます。この声に対しては、主人公のヴィルヘルムは「ごますり、おべっかにお追従たらたら、すばしっこくて、気取り屋、何でも知っているくせに頭の中はからっぽ、法の網目をくぐって悪事をはたらくくせにまるで能なしのでくの坊―こういう手合いをどうして一人の人物で表現できるでしょうか」と疑問を呈し、むしろ一ダースぐらいの群れをなした人間が必要なほどだ、と主張して「シェークスピアがわずかふたりの人物で代表させたのは、たいへん控え目で賢明なやりかただった」(pp.260-261)と説き伏せています。

 皆さんは、ゲーテが登場人物に論議させているこの二つの点について、どう考えるでしょうか。それを本日はテーマとして、論議の輪を広げて行きたいと思います。

 一人でも良いのではないか、とゲーテの小説で問われているローゼンクランツとギルデンスターンを主人公として組み立てられたのが、トム・ストッパード作の『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(小川絵梨子訳、ハヤカワ演劇文庫)です。コインの表裏を賭ける遊びで、表ばかりが際限なく続く情景から物語りは始まります。次回からこの作品を使って、「表と裏」や「演劇と現実」「舞台と観客」をテーマに、皆さんの声を寄せてもらいましょう。

 まずは、すでに準備をしている方による近松門左衛門「芸術は虚実の皮膜」論を使った、ハムレットの解釈登場です。