5、ヘーゲル カントは弁証法の本能的発見者である。

この日の講座(2013.2.5)は、弁証法をめぐって、プラトン(ソクラテス)、カント、ヘーゲルの三人をつなげることから始めました。

 ヘーゲルは、プラトンの対話編『パルメニデス』を「古代における弁証法の最高傑作」と断じています。若きソクラテスが、当時65歳のパルメニデスに、「あるはある」とする彼の深遠な哲学について語ってくれるように頼み、「それはなかなかの力仕事になるがね」とパルメニデスが応じて対話が進んでいきます。のちのカントとヘーゲルに通じるのは、彼の言説が、三つの命題からなっていることにあります。

1、存在は一つである。
2、存在は多である。

 この矛盾する二つの命題から、「存在は一であって、多である」、あるいは「存在は一でもなければ、多でもない」という第三の命題が導かれ、矛盾の先に何か新しい光がさしてくるのを感じさせるのです。これが、下でヘーゲルの言う「三重性の原理」です。

 カントは、私たちの認識が、やはりこの三重性の原理からできていることを意識し、彼の言う「4種類の認識のカテゴリー」をすべて三つの命題によって構成しています。
その一つを「私」という主語によって構成してみましょう。

1、私は私である。
2、私は私ではない。
3、私は非私である。

 ヘーゲルは、この三重性の原理を次のような発展原理へと置き換えたのです。
「私は私である」と「私は私でない」は矛盾する命題です。これを、ヘーゲルは「私」に対して、精神が「私ではない」他者を対峙させ、この矛盾を乗り越えたところに新しい「非私」が出現することを、精神の自己運動として弁証法の例にあげたのです。

 世の中には、対立してときに矛盾に陥る概念がいくつもあります。「自由」と「平等」は、典型的なその例です。自由が過ぎれば平等が失われ、平等にこだわると自由が損なわれます。とくに、富や所有財産に焦点をあてた社会システムとして、自由を第一とする自由主義と、平等を第一とする共産主義があります。この両者を両立する形で、現代社会に定着してきたのが民主主義です。
 自由主義と共産主義とが対立していた時代がほぼ終わり、民主主義が世界の体制の大勢として確立しつつある状況を、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」と表現しました。ヘーゲル的に言えば、対立軸の出現する余地がなくなれば、歴史の自己運動力も消滅し、大きな変化がなんくなるので、これを「歴史の終わり」と表現したのです。

 たとえ大きな意味での歴史が終わったとしても、世界は相変わらずさまざまな矛盾や動乱・対立に満ちています。それを少しでも解決の方向に向かわせるには、どうしたらいいのでしょうか。フクヤマは、プラトンが『国家』で描き出した「テューモス」という概念に注目しています。藤沢令夫の訳では「気概」と訳されている「テューモス」は、日本語の「気」に通じ、「腹を決める」「腹が立つ」など、身体では腹に関係する言葉です。プラトンは霊魂(プシュケー)の在りかを「頭」「胸」「腹」という三分説を立てました。簡単に役割を図式化すると、

1、頭 :理性
2、胸 :欲望、愛…
3、腹 :怒り、気骨…

となります。
 あなたが戦場にいて、泥水しかない状態を想像してみてください。のどが渇ききって、ひたすら飲みたい気持ちがある一方、その水を飲んだら死ぬぞ、と諌める声がします。前者が魂の「欲望」の声、後者が魂の「理性」の声になります。このような対立した状態の時に、どちらかを選ぶように仕向けるのが、「腹」の役割です。

 ときには、私たちは「腹の声」に耳を傾ける必要があるかもしれませんね。

受講者の声の一例

「現代の状況は、フクシマの『歴史の終わり』よりも、ハンチントンが描き出した『文明の衝突』ではないか」

cf. サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』(鈴木主税訳、集英社、1998.6)

以下は、事前に配布したこの日用のレジメです。

問い:イデオロギーの対立が消滅しつつある現代を、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」と説いている。果たして、歴史の終わりはあるのだろうか。

テクスト: ヘーゲル カントは弁証法の本能的発見者である。
(『精神現象学序論』中央公論、pp.126-127)
「またつぎの点に注意しなければならない。三重性の原理は、カントでは、いわば本能的に再発見されたばかりであり、まだ死んでいて、概念的に把握されてはいないものであったが、その後それの絶対的意義にまで高められるようになった。ために、真実の形式が同時に真実の内容をともなって立てられ、学問の概念が現れ出るにいたった。…真なるものは、本来、その時がくれば世に浸透していく。このことをわれわれは信念とせざるをえない。真なるものは、その時がきたときにのみ現れるのであり、したがって、決して早く現れすぎることも、未熟な公衆しか見いださないということもない。また、真理を語ろうとする個人にとっても、公衆に浸透してゆくというこの効果が必要なのであって、自分だけのことがらにすぎなかったものが、それによって真理として確かめられ、まだ特殊なものでしかなかった確信が、一般的なものとして経験されることになるのである」(『精神現象学序論』中央公論、p.126,p.146)

サブ・テクスト:フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』(渡辺昇一訳、三笠書房)

<解題>

 ここで言われている「三重性の原理」とは、対立概念が新しい概念を生む弁証法の基本原理のことである。通常は、正・反・合などと書かれる。対立の存在を発展原理として弁証法として体系化したのがヘーゲルであった。弁証法(英語dialectic)は、ギリシア語由来の言葉で、ソクラテスの「問答法」「対話法」をその始まりとする。カントは、二律背反の原理によって、時間の原点があるとしてもないとしてもどちらも成立すること、あるいは、神がいるとしてもいないとしてもどちらも成立すること、など、矛盾するはずの対立概念が矛盾しないことを示した。これから「理性の限界」なる考え方が導き出されたのである。この思考方法は、まさに弁証法的なものだと言ってよい。しかし、ヘーゲルによれば、カントはこの方法を生成原理へと高めるに至らなかった、という。ヘーゲルの弁証法は、次の部分によく現れている。
 「生きた実体とは、その実体が、自分自身を定立する運動であり、みずから他者となりつつそのことを自分自身に関係づけ媒介するという、このかぎりにおいてのみ真に現実的であるところの存在である。…精神とは、みずから他のものに、すなわち自己の対象になり、そしてこの他であることを止揚する運動にほかならない。…」(『精神現象学序論』中央公論、p.101,p.116))
 ヘーゲルは、矛盾・対立こそが進歩・発展の原動力である、と考えた。私という存在のなかに、私が見つめる他者としての私がある。その他者としての私と私自身とが一つになって、新たな私が生まれる。その連続が精神の運動であり、時代(歴史)もまた、この自他の対立から発展してきた、とヘーゲルは考えるのである。