5、ホーフデーメル事件に見る撲殺説の真相

         ー怪しいのは誰だー

 モーツァルトが亡くなった翌日の1791年12月6日、ラウエンシュタイン通りのモーツァルト家から5分も離れていないグリューン―アンガ―通り10番地の最高裁書記官ホーフデーメル(1755頃-91)宅で、実に陰惨な事件が起きました。モーツァルトの弟子でもあった妊娠5か月の妻マリーア・マグダレーナ(1766年生まれ。当時25歳)を、夫ホーフデーメルが刺して重傷を負わせ、本人は自殺して果てたのです。まことしやかに語られている話は、マグダレーナはモーツァルトの愛人であり、嫉妬に狂ったのか夫のホーフデーメルが凶行に及んだというのです。
 
 話はそれに留まらず、実はホーフデーメルによってしたたかに殴打されたことがモーツァルトの死の原因であり、醜聞が明るみに出るのを恐れたウイーン皇室が、ヴァン・スヴィーティン男爵の力を借りてもみ消しにかかり、ホーフデーメルを自殺させる代わりに、コンスタンツェに年800グルデン(フローリン)の年金給付を与えることを約束したというのです。何やら荒唐無稽なこの説を、モーツァルトの死にまつわる数々の疑問を手掛かりに解明した、と称しているのが、イタリアのジョルジョ・タボガです(『撲殺されたモーツァルト』谷口伊兵衛・G/ピアッザ訳、而立書房)。
 
 当時の新聞情報などによると、アパートの2階に住んでいたホーフデーメル宅で罵声や怒声が聞こえ、訪れた人が鍵を壊して中に入ると、首、両肩、両腕を刺され、顔を傷つけられたマグダレーナが血の海に横たわっていたというのです。やはり鍵がかけられたままの隣室には、喉を切り、片手にカミソリをもったホーフデーメルが横たわっていました。ホーフデーメルは死んでおり、マグダレーナは駆けつけた医師の手当てで一命をとりとめました。ホーフデーメルは、犯行後に自殺したと考えられました。事件から一か月後に出た「ウイーン女性雑誌」1792年第二号)によれば、「俺はもうおしまいだ! もう家を出れない。死ななくちゃならんのだ!」「いいか、お前は誰にも渡さんぞ! 俺と一緒に死ぬんだ!」などというホーフデーメルの叫び声を、同じアパートに住む人が聞いたというのです。

 まったく三面記事そのもののこの事件と、モーツァルトがどうつながるというのでしょうか。資料として明確に確認できるのは、モーツァルトがこのホーフデーメルから100フローリンのお金を借りていた事実です(1789年3月末の借金申し込みの手紙。同4月2日付のモーツァルトがサインした100フローリン返済を約束する手形)。マグダレーナはモーツァルトのクラヴィーアの弟子で、その父親の音楽家ゴットハルト・ポコルニーからも1790年に懐中時計を形に借金をしています。モーツァルトの借金申し込みの手紙(1789.3末)には、ホーフデーメルのことを「最愛の友よ!」と呼びかけており、少なくとも二人が友人関係にあったことは間違いないでしょう。

 マグダレーナが身ごもっていたのは、モーツァルトの子である、との憶測がいまだに根強く残っています。たとえば、音楽学者のアインシュタイン(前回、原先生が紹介した、ピアノ・ソナタk.310イ短調とk.330ハ長調との音型類似性を指摘しているあの著名な音楽学者です)までが、ホーフデーメル事件にからめて“二人の間の関係”とを次のように匂わせています。

 「モーツァルトの死後の5日目に、ホーフデーメルは妊娠中の妻を殺害しようと企て、剃刀で妻の顔と頸に切りつけ、そのあとで自殺したのである。この行為は嫉妬のためだとされたーしかし根拠のない嫉妬の場合もあるのである。この未亡人は皇帝レーオポルトから560グルデンの扶養料を受けた。ああいう公のスキャンダルのために、彼女は…父親のもとへ移って行ったが、そこで、男児、ヨーハン・アレクサンダー・フランツを生んだ。この子供がモーツァルトの子であったか、ホーフデーメルの子であったかは、不明であるーその子がヨーハン・ヴォルフガング・アマデーウスの名と、フランツの名とを持っているのは、はなはだ意味深長である」(アインシュタイン『モーツァルトーその人間と作品』浅井真男訳、白水社、p.109)。

 「ふまじめでエキセントリック…おまけに『いかがわしい種類の交遊』までおこなうモーツァルトが、われわれにとっての原存在となる」と断じ、「彼の奇妙な挙動、どんなふうにであれアブノーマルな態度、といったものを予期していなかった人々に対して、モーツァルトはどんな印象を与えたのだろうか?」と問いかけるようなヒルデスハイマーも、モーツァルの“女好き”を匂わせるいくつかの証言を明かしています。

 「あるとき、わたしがピアノについて、『フィガロ』の『モウ飛ブマイゾ』を弾いているとちょうどわたしたちのところにいたモーツァルトが、わたしのうしろにやってきた。わたしはたぶん彼を満足させていたにちがいなかった。というのも、かれはいっしょにメロディーをうなり、わたしの肩で拍子をとったのである。…」(のちのシューマンの庇護者であり音楽サロンも主宰していた女流作家カロリーネ・ピヒラーの回想。ヒルデスハイマー『モーツァルト』渡辺健訳、白水社、p.336)「どちらかといえばおしゃべりだったらしい銀行家ヘニックシュタインはノヴェロー夫妻に、モーツァルトはすべての女弟子に恋したと語っている」(同書p.342)。

 『撲殺されたモーツァルト』の著者タボガは、ベートーベンの弟子だったカール・チェルニーが、ウイーンに滞在中の1852年にモーツァルトの研究家オットー・ヤーンに、次のようなベートーベンにまつわる話をしていた、と紹介しています(同書p.132)。

 マグダレーナがあいさつがてらウイーンにやって来た。チェルニーも一緒だった。マグダレーナは訪問がてらに、ベートーベンが音楽を演奏しているところを少し聴かせてもらえないかと求めた。…ベートーベンが訊いたー「ホーフデーメルに? あの女はモーツァルトと関係を持ったんじゃないか?」…ベートーベンは彼女の前で演奏したりは絶対にしない。と言い張った。

 こうしたモーツァルトの“女癖”を下地にしながら、1791年12月のモーツァルトの死について、次のようなストーリーをタボガは描き出します(pp.167-172)。

12月3日夕方、あるいはそれより数日前、モーツァルトはホーフデメールから、激しく棒でたたかれて帰宅し、ベッドに寝かされた。手足に腫れがあり、頭痛と吐き気が見られた。3日から4日の夜になって、頭部の激しい打撲により、脳溢血を引き起こし、半身麻痺に陥り、コンスタンツェは病人が夜を超せないのではないか、と怖れた。

12月4日、芝居がはねてから診察に訪れたクロセット博士は、もう手の施しようがないと悟った。彼は、病人のこめかみに水と酢を混ぜた湿布をするにとどめ、ヴァン・スヴィーテンと王子カウニッツ=リートベルクにすぐに知らせるよう手配し、カウニッツは皇帝レオポルト2世に、スキャンダルをもみ消す課題をヴァン・スヴィーテンに任せるよう勧めた。
 スヴィーテンは、現場でコンスタンツェを遠ざけるよう手配し、スキャンダルが広まらないよう見舞い客の来訪を禁じた。さらにコンスタンツェから、年金800グルデンの約束と引き換えに、モーツァルトが死んだ場合には、遺骸を機敏かつ決定的に消去することへの同意を取りつけた。モーツァルトは家のなかで義妹ゾフィーとジュスマイヤーにずっと任されたままだった。

12月5日 0時55分に、モーツァルトはゾフィー・ハイベルの両腕に抱えられたまま亡くなった。立会人はジュスマイヤーだけだった。クロセット博士は検屍は行わなかった。頭の状態や、全身に広がった腫れや、殴打の印(血腫=浮腫/点状出血)から、死因はあきらかだったからだ。同早朝、遺体は薄暗い部屋の中でお棺に収められた。黒い死装束に包まれ、頭には頭巾が掛けられて顔が見えなくしてあった。
 同日、シュテファン大聖堂で祝福が施された後、夕方遅くに遺骸は共同墓地に埋められた。棺に付き従うことは誰にもできなかった。共同墓地への埋葬の目的は、遺骸を消去させて死体発掘を妨げることにあった。埋葬が聖マルクス墓地で行われたかどうかは確かでない。

12月6日 フランツ・ホーフデーメルが自殺を強要される。

12月7日 「ウイーン新聞」はモーツァルトの死去を伝えたが、埋葬地についてはいかなる言及もなされなかった。

1792年4月6日 ホーフデメール未亡人に560グルデンの年金が支給された。夫の年俸は400グルデンだったにもかかわらず、である。

 モーツァルトは、ホーフデメールに散歩用のステッキで打ちのめされ、頭蓋骨を割られて自宅に戻ったことになっています。このお話を荒唐無稽ととるか、在りうる話ととるかはお任せしますが、どうにも気になるのが、モーツァルトの死には検死が行なわれた記録がないことです。

 ダルヒョウらは、1791年11月と12月の検死記録1760件を調べ、欠けているのがモーツァルトを含め6人しかいないことを見出しました(ダルヒョウ、ドゥーダ、ケルナー著『モーツァルトの毒殺Ⅱ』(海老沢敏・飯島智子訳、音楽の友社、p.204)。彼の「死因」に、何か疑わしいことがあり、意図的に隠された可能性はないのでしょうか。

 さて、この事件で、もっとも怪しい動きをしていたのは誰でしょうか。
皆さんの、闊達な推理をお待ちします。

★そのほか、次のような本もご参考にどうぞ。

エルネスト・W・ハイネ『大作曲家の死因を探る』(市原和子訳、音楽之友社)
フランシス・カー『モーツァルトとコンスタンツェー新説 謎の死と埋葬をめぐって』(横山一雄訳、音楽之友社)