5、平賀源内の「エレキテル」

 今回は、「エレキテルをつくった天才発明家」「大江戸アイデアマン」「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」などの言葉が踊っている平賀源内について、ソクラテスの問いに戻って、「彼は何者なのか」を皆さんに考えていただきたいと思うのです。

 モーツァルトが生まれた1756年に、高松藩の讃岐国志度浦(現在の香川県・志度町)から一人の男が江戸に出てきました。のちに静電気を貯めて放電させるエレキテルを日本で初めて“発明”した平賀源内です。

 当時の江戸は、すでに町人文化が花開き、五、七、五と七、七を繰り返していく連句が隆盛し、「連」と呼ばれる俳諧ネットワークが各地で盛んに生まれて、俳諧文化が花盛りとなっていました。江戸の文化度が並々ならないことを示す連のような人的ネットワークを参考に、「薬品会(やくひんえ)」を組織し、全国から薬草を一箇所に集めて高価な輸入品に対抗できる地場の薬草収集ネットワークを作ったのが平賀源内でした。

 18世紀は、ヨーロッパでは「啓蒙」の時代であり、人々の意識が開かれ、フランスではフランス革命(1789年)によって王権が消滅し、イギリスでは「君臨すれども統治せず」の精神のもと、民衆側に権力が委譲する世が誕生していきました。日本では、八代将軍吉宗から、九代家重、十代家春の治世にあたり、江戸で俳諧など庶民文化が花開く一方で、「享保の大飢饉」(1732年)や「天明の大飢饉」(1782年)によって、幕府の財政立て直しが急務の時代でした。

 幕府の財政再建に腕を振るった田沼意次(1719-1788)にも認められた源内は、秋田藩などから鉱山開発の依頼を受けるなど、産業振興の面でもその才能を発揮したのです。

 12歳のときに、お神酒を捧げると絵に描いた天神様の顔が赤くなるカラクリを考え出し、志度の地元で「天狗小僧」の異名をもらいました。その才能を藩主に買われて25歳のときには長崎に遊学し、最先端の西洋文化に触れ、後に「寒暖計」や「万歩計」などの発明を生む土台になっています。源内作として有名なエレキテルも、長崎で見つけたオランダ製のエレキテルを修復したものですが、持ち前の旺盛な好奇心と知識欲、そして技術の吸収力によって花開いた源内の「才覚」を余すことなく伝えています。

 『論語』の「徳孤ならず、必ず隣有り」をもじって「馬鹿孤ならず、必ず隣有り」とパロディ化するユーモアに満ちたこの才人は、西洋の遠近法をものにして油絵「西洋婦人図」を描き、「風来山人」「天竺浪人」「福内鬼外」などのペンネームを持った売れっ子戯作家としても名を馳せました。浄瑠璃の台本『神霊矢口渡』は、現在でも歌舞伎の演目の一つになっています。ウナギを食べる日のキャッチコピーとしてなくてはならない「土用の丑の日」も、源内作だそうです。

 ダ・ヴィンチが絵を含めて多くの作品を未完のままにしたのに似て、平賀源内もまた溢れる「想像力」によってさまざまな”発明“や”開発計画“を考え出しましたが、時代に進みすぎたのか、その多くは実質的な成果を生まないままで終わりました。

 さて、このような稀代の才人を、私たちはどのように呼んだらいいのでしょうか。