5、正義にはいくつかの異なった意味がある

 米国の黒人弁護士Brian Stevenson(ブライアン・スティーブンソン)によるTED(テッド・コンファレンス)における講演「司法の不公正について話さなければなりません」(We need to talk about an Injustice)について、発表してくれた受講生の問題提起「貧困の対極は富ではなく正義である」があまりにも素晴らしいので、彼のスピーチにあるもう一つの大事なメッセージについて今回は取り上げることにしました。

 スティーブンソンは、9人に1人の死刑囚が冤罪だというショッキングな現実がありながら、アメリカではそれを問題視しようとする動きがないことに危惧を覚え、「無関心というアイデンティティ」がアメリカ国内には醸成されている、と訴えているのです。

 スティーブンソンは
「(死刑制度のある)南部の州では、被害者が黒人ではなく白人だと11倍も死刑になる可能性が高く、もし容疑者が白人だと死刑になる可能性は22倍です」
「アラバマ州では現在34%の黒人男性が永久に選挙権を失った状態です。私たちの予測では、あと10年もすれば選挙権喪失で選挙権を持たない割合が公民権制定時と同じくらいになってしますと予測しています」
「アメリカは13歳の子どもを死ぬまで牢屋に入れる世界でたった1つの国です。この国には子どもに対して仮釈放なしの終身刑があります。こんな国は世界でたった一つです」
 など、ショッキングな数字を次々にあげ、こうした現実がありながら、アメリカ国民は「これほどにも無関心「誰も騒がないこの静けさ」と声を大にして語りかけるのです。

 さて、日本ではどうでしょう。東日本大震災の被災者・被災地の問題を初め、生活保護をめぐる日本の貧困層のこと、などなど、日本にも無数の問題が実質的に未解決のまま潜在化しています。その多くの問題について、私たちの間にも「無関心というアイデンティティ」が巣食っているのではないでしょうか。世界という問題に目を向ければ、スティーブンソンの話に象徴される身震いするような現実が確かに存在していることは否定できないでしょう。

 「無関心というアイデンティティ」が巣食っているのではないか

 との問題提起に、日本人の相互扶助の精神は健在であり、メディアがその現実をきちんと伝えていないために、「(東日本大震災などのことについて)無関心が覆ってきているように見えるのではないか。私は、メディアの責任が大きいと思う」との声が出ました。

 また、
「日本人は『無関心を装う』というある種の国民性があるのではないか」
との声、
さらに、
「この米国の弁護士が語っている無関心の原語は、apathy アパシーではないか。そうだとすれば、むしろ『冷淡』と訳すべきではないかと思う」
との指摘も出ました。

 皆さんからさまざまな意見が寄せられました。

 単に、無関心と言っても、さまざまな意味合いがあります。「無関心」の原語が何かをスティーブンソンのスピーチの英文を見ると

 disconnect

 となっています。
 辞書的には

 「無関心状態」
 「精神的なつながりを断っていること」

とあります。

 connect は「つなげる」の意味ですから、disconnect は、意識的的か無意識的、あるいは意志的か非意志的かによって、つながりを断っている状態(能動的)にもなれば、つながりを断たれた状態(受動的)にもなるでしょう。

 次回は、この「無関心」の意味について、皆さんとさらに議論を深めたい、と思います。      
 
<レジメ>
 「『公正な社会』に注目する現代の正義論の大勢とは対照的に、本書では正義が前進しているのか、それとも後退しているのかに焦点を合わせる実現ベースの比較について考察する。この点において本書は(ロックやルソーやカントらによって展開されて)啓蒙時代に現れた…哲学的にもよく知られた伝統から離れ(スミス、ベンサム、マルクス…らによって追及されて)同じ時期、あるいはその直後に形成された『もう一つの伝統』に従うことになる。…これらの思想家たちは、『正義』という言葉を様々な意味で用いている。アダム・スミスが述べているように、『正義』という言葉は『いくつかの異なった意味を持っている』。私はスミスの正義の考え方を最も広い意味で検討することになろう」
        (アマルティア・セン『正義のアイデア』pp.39-41)

 アダム・スミスは「たんなる正義は、たいていのばあいに、消極的な徳にすぎず、われわれが、自分たちの隣人に害を与えるのを妨げるだけである」(『道徳感情論』水田洋訳、岩波文庫、p.213)。)と言う。そして、侵害されると人が憤慨し、侵害した者は処罰の対象となる、そのような形の「徳」である、と正義を定義づける(同p.208)。さらにスミスは、「人類は、不正によってなされた害への復讐のために使用される暴力には、ついていくし、是認をあたえる」(同)「すべての人は、もっとも愚昧で無思慮なものでさえ、詐欺、背信、不正を嫌悪し、それらが処罰されるのをみて喜ぶ。だが、社会の存立にたいする正義の必要性について、反省したことがあるひとは、めったにない。その必要性が、どんなに明白であるように見えるとしても、そうなのである」(同p.231)とも付け加えている。
 ディケンズが『大いなる遺産』のなかで主人公のピップに語らせ、センがそれを『正義のアイデア』の冒頭に引用している「不正義ほどはっきりと感じとれるものはない」は、「小さな子どもの世界」に留まらない。単純に要約すれば、人は不正に対してはただちに憤慨するが、正義そのものの必要性を真剣に考えることはない、ということにほかならない。だから、「正義は消極的な徳」であると、言うのである。
 これに対して、たとえばカントにとっての正義(正しい行い)は、自身の行動格率を普遍立法に適うようにふるまうこと、と定義して良かろう。カント的普遍立法は、簡単に言えば人類全体の幸福を視野に入れた行動を是とするものである。とすれば、人類的な視点での言動が、正しい行為ということになろう。正義はただ一つ、人類的視点での行動であり、それに反することはすべて不正義、となる。
 カント流の正義の定義を「正義は積極的な徳」と名づけることにしよう。スミスの正義は「受動的正義」、カントの正義は「能動的正義」とも言えよう。