5、死のシンギュラリティー

 前回は、丸山真男をテーマとしたNHK放送の「日本人は何を目指してきたのか」を、お一人が講談のような語り口で、たっぷりと聞かせてくれました。他者感覚のなさを嘆いていた丸山が、結局は本人の説く「雑種」にはなれず、生き方も論文も「雑居型」のままで終えたのではないか、の声や、一高時代に警察署に勾留され特高の取調べを受けた経験を持つ丸山が「生涯追求していたのは自由の問題だったと思う」の指摘も耳に響きました。

 さて、本日は、生命科学と情報科学の急速な発達により、人間がやがて不死となるときを「死のシンギュラリティー」と名づけて、一文を書かせていただきます。科学技術の発達は、次のような近未来が現実になることを予感させます。

1、 移植技術の発達で、いずれすべての臓器が移植可能になる。
2、 遺伝子治療の発達で、いずれすべての身体臓器が、自らのIPS細胞によって再生が可能となる。
3、 情報技術の発達で、いずれすべての脳内情報を、USBメモリーなどに蓄積し、器械と人が情報体として交換可能となる。

 このような状況の現出によって、人間は身体も心(脳)も再生可能となり、「死」が消滅します。このときが「死のシンギュラリティー」です。死によって終結する「命(いのち)」に対して、終結なきこのような存在は、物質に復元可能な心(意識)が内在された「意識体」とでも名づけられることでしょう。次のようなシナリオで進むと考えられます。

1、 まず、身体のIPS細胞再生により身体の永遠性が保証されるが、脳の再生と脳情報のメモリー交換化が現出しない限り、脳の老化による死が存在する。
2、 脳の再生実現によって脳が永遠に生きるとしても、脳内情報をストックする人工メモリーシステムが確立していなければ、脳の老化や破壊は個体の死と同等になる。再生した脳に、それ以前の脳の情報を移す技術の確立をもって、「私」という個体は、永遠性を獲得し、死から免れることになる。
3、 技術的に、個人の「死のシンギュラリティー」が実現してきたとしても、人類そのものが種として不死になるまでには時間がかかろう。まずは、コストの問題がある。
4、 新しい技術は、高価である。したがって、死を免れる個体は、最初は富裕層だけになる。その結果、死を免れることを望む人間たちによって、金銭の収奪や医師・技術者たちへの脅迫etc,など、想像もできないような争いや犯罪が多発する。

 永遠の生を望むもの同士の争いで、人類全体が「死のシンギュラリティー」を迎えるまでに、人類そのものが破滅しているかもしれませんが、不死の状態を得た「私」とはいかなる存在なのでしょうか。「死」がなければ恐れるものもなく、人と争うことも不要となり、「生きる努力」もいらず、喜びも怒りも、妬みも嫉妬も、希望も、いや「生きる喜び」そのものも消えて行ってしまうでしょう。

 このような「存在」は、何をして永遠の時間を過ごし、50億年後に太陽そのものが消滅の時を迎える時、彼は、初めて消滅への恐れを感じるのでしょうか、それとも太陽系以外へととっくに逃避しているのでしょうか。皆さんのご意見は?