5、河上徹太郎「ドン・ジョヴァンニ異聞」

 芸評論家の河上徹太郎は、音楽評論にも手を染めていましたが、親友・小林秀雄の『モオツァルト』に「誘発」されて『ドン・ジョヴァンニ』(講談社学術文庫)を書いた、と言っています。お配りしたのは、その一部で、昭和37年5月に「放送文化」に掲載されたものです。
 
 私が「ドン・ジョヴァンニ」に傾倒し出したのはいつ頃だったろうか? とにかく戦後間もない時分キェルケゴール選集が出て、その『あれかこれか』の中に百頁に及ぶ『ドン・ジュアン論』があったのを感激のうちに通読し、改めて私の陶酔を確かめたのであった。キェルケゴールはこの音楽を聴きに幾度か劇場へ通ったが、舞台の仕草が眼について印象を害うので、廊下で聴いたそうだ。…最も敬虔なキリスト者であるキェルケゴールが、神の愛について考えた時、その愛を最も悖徳(はいとく)のテクストを持ったこのオペラの主題である情欲に結びつけ、ここに愛の完璧な表現を認めたことは興味のある事実だ。(同書100頁)
 
 このように、デンマークの哲学者キルケゴール(1813-1855)の『あれかこれか』にあるドン・ジョヴァンニ論に感激した河上は、『モーツァルトとの散歩』で知られるアンドレ・ジイド派の劇作家アンリ・ゲオンのドン・ジョヴァンニ論から「不吉な魅惑を伴った陶酔の中に」誘われた、とも告白しています。

 そのゲオンが、知的な組み立てでオペラを作り上げるワーグナーと比べて、モーツァルトは「生そのものから出発し、真に肉体を持った存在をとらえ,…歌わせる」と書いていることに河上は注目します。そして、『ドン・ジョヴァンニ』の登場人物が「簡単な音によって代表され描かれていることに感づいて」驚き、「その人物の現前を感得させる」と、感激をもって語るのです。
 
 キルケゴールは、主人公ドン・ジョヴァンニの本質を「誘惑者」ととらえ、古代ギリシアの愛の化身「エロス」の体現者と位置づけています。河上が使っている「情欲」の原語は「エロス」ですが、これはあまり適切な表現ではありません。宴会でエロス神の本質とは何かを競うお話として知られるプラトンのソクラテス対話編『饗宴』では、エロスは「究極の美」そのものであり、私たちが求める「愛」は、対象の中に常にこの究極の美を求めようとする行為とされています。
 
 キルケゴールは、ドン・ジョヴァンニは惑星の影の部分を輝かせる太陽である、とも言っています。影の部分とは何でしょうか。それは内在する「本当の自分」のことであり、エロスが見せる究極の美とは「輝いている本当の自分」のことなのです。ツェルリーナは農村娘からの脱出、ドンナ・エルヴィーラは修道院生活からの開放、ドンナ・アンナは本意ではない許婚との別離―彼女たちはドン・ジョヴァンニの誘惑によって、「輝いている自分」への道を見てしまったのです。キルケゴールのメッセージは「ドン・ジョヴァンニは一つの生であり、そして他者の生の原理である」に集約できます。そして、モーツァルトの音楽こそが、他者を活性化する「誘惑の力」として働いていることを、キルケゴールは見出したのです。