5、美は自然が我々に配慮した恩恵である

「美とは何か」を、一言で表現する「ゲーム」をいたしましょう。

★興味深い声がいろいろ出ました。

「美は立ちはだかるものである」
「美は学習によって獲得するものである」
「美は共感である」

 画家の受講生が、オーストラリア原住民アボリジニの女性作家エミリー・ウングワレーの作品を「これは凄い」と紹介しました。無数の波打つ線で構成されている抽象画がとくに話題となり、このような線はとても書けない、と感嘆するのです。日本画家は、定規を使わないで何本でも同じ直線を描けるように訓練するが、このアボリジニ画家は本能でもって自然と凄い線を書いている、のだという。
 書道をやる一人の受講生は、集中が途切れた時点で線がダメになる、と話す。
etc

美は自然が我々に配慮した恩恵である
「自然の美もまた体系としての自然全体における、いわば自然の客観的合目的性と見なされてよい。ここで自然の美とは、言うまでもなく我々が自然の現象を捕捉し判定する場合の、自然と我々の認識能力[構成力と悟性] の自由な遊びとの合致にほかならない。体系としてのかかる自然全体には、我々人間もまたその一成員として所属しているのである。我々は自然が有用なもののほかに、なお美や快い感覚刺激をも我々に与えてくれたことを、自然が我々のために配慮した恩恵とみなすことができる」(p.47)

★サブ・テクスト:モーツァルト オペラ『ドン・ジョヴァンニ』からドン・ジョヴァンニとツェルリーナの二重唱
★サブ・テクスト:キルケゴール『あれか これか』
:アラン・ド・ボトン『プルーストによる人生改善法』(畔柳和代訳、白水社、pp.43-53)

 キルケゴールは『あれか これか』においてモーツァルトのドン・ジョヴァンニを取り上げ、主人公ドン・ジョヴァンニを「審美的な生き方」という一つの実存形式「官能者」として描き上げた(そのほかに、「倫理的」「宗教的」の二つの実存方式がある)。それは単なる放蕩者ではなく、「美」を素直に愛でる生き方の典型なのである。カントの「恩恵論」からいえば、ドン・ジョヴァンニこそ、最大の恩恵享受者、ということになるだろう。 
 プルーストの『失われた時を求めて』は、ストーリー全体の長さ(712頁)だけでなく、寝返りをうつシーンだけで30頁、句読点のない文がワインボトル17周にも亙って続く、など編集者泣かせで出版社が一応に匙を投げ、プルーストは自費でこの作品を出版せざるを得なかった。現代において、「全英プルースト要約競技会」なるものがあり、プルーストの作品七巻を十五秒以内でまとめるコンテストが行われている。哲学的には、これはある種の「縮約」である。世界の出来事のすべて、宇宙の出来事のすべて、さらには人生そのものなどが、極めて短い一文の中で表現されると、逆にそれが真理を開示することが杜松らしくない。パスカルの「人間は考える葦である」から、芭蕉の「ふと見ればなずな花咲く垣根かな」、さらにはピカソの「芸術は真理を開く虚構である」に至るまで、洋の東西を問わない。
 カントの「美は自然が我々に配慮した恩恵である」も、美とは何かを示す一種の「縮約」である。「審美的な生き方も、実存の一つである」とのキルケゴールの命題も同じく「美」にからんだ縮約である。美は、私たちにとって何なのか、ここでは皆さんの「縮約」を披露し合いたい。 
 ちなみにモーツァルトの音楽哲学は「怒っていようと嫉妬していようと、いかなる感情の状態を表現するときでも、音楽は常に美しくなければならない」である。そしてモーツァルトは、音楽によって「美そのもの」を描き出した(アンリ・ゲオン『モーツァルトとの散歩』(白水社、p.254)。