5、透明人間になれる指輪があったら…

 前回は、受講生の一人から「プラトンの対話篇は、どうもギクシャクが気になる」との指摘がありました。私は、演劇仕立てがそのような印象をもたらすのかな、と思いますが、文学音痴な私には、恐縮ながら満足な答えができませんでした。別な受講生は、パイドロスにあるソクラテスの言葉「土地や樹木は、ぼくに何も教えてくれようとはしない」(230D)に疑義をはさみました。そういう感覚には納得いかない、というのです。これは、土地や樹木からは、学ぶべきことは何もない、とソクラテスが考えている、ということなのか、との問いかけでした。
 
 私は、この場面でソクラテスが言いたかったのは、あえて市壁の外に出て異なる空気を吸わなくとも、アテナイの人々と対話をするほうがはるかに得ることが多い、ということではないか、と答えたと思います。翻訳は、原文「 τὰ μὲν οὖν (まことに)χωρία (土地)καὶ τὰ δένδρα (樹木)οὐδέν μ᾽ ἐθέλει(しようとしてくれない) διδάσκειν(教える)」(230D)を忠実に訳しており、ここに象徴される考え方が、たぶん、ソクラテスを「人間中心主義」のルーツとする見方につながっていったのでしょう。ただ、古代ギリシア人の自然観がどのようなものであったかは、いずれ取り上げる必要があると思います。

 今回は、グラウコンによる次のような「正義の起源」を前提として、始められます。

 人の本姓は人に不正を加えることは善、不正を受けることは悪であって、より不正を加える力のない者たちが法律を作って「してはいけないこと」を相互合意(契約 συνθήκη: συν一緒の、θήκη箱、剣のさや、墓、棺。英訳:make a compact=ラテン語由来の合意・同意する)、それを守るのが「正義」である、と決めたことによるのである(358E-359A)。

 グラウコンは、人は欲に駆られて行動するのが自然(ピュシス:本性)であり、正しいとされている人も、法(ノモス)の力で無理やり不正に向かうのを抑えられている、と議論を展開していきます。ギュゲスの逸話に出てくる透明人間になれる指輪(359D-360B)があれば、誰もが好き勝手なことをし放題になることは目に見えている、とグラウコンはたたみかけていきます。

 グラウコンによれば、正義を求めるひとは、鞭打たれ、拷問にかけられ、あらゆる責め苦を受けた上に磔にされる運命であり、不正な人間は好き放題なことができるだけでなく、神にまで愛される者となる、とまで極論するのです。

 アデイマントスは、弟を弁論するとして、ヘシオドスやホメロスを引用しながら、正しい人に対する数々の賞讃と、不正な人に対する非難をまずはあげておきます。しかし、現実には、正義や節制は困難で骨の折れることだが、放埓や不正は快いものであって、それが醜いものとされているのは、法律や習慣、世間の思惑によるものに過ぎない(366E)、と展開していきます。

 アデイマントスは神々まで持ち出して不正の利得を弁護し、「正義をあがめ不正をとがめるのは、評判や名誉、報いを気にしているからに過ぎない。それ自体として、不正より正義が善いことの根拠を示せ」とソクラテスを問い詰めます。さて…。