5、AI君、君はカントになれるかな?

「理性」をデカルトは、私たち人間すべてが共有する世界を理解する道具と考え、神中心の世界観から理性中心の世界観へと私たちを導きました。そこには、「理性によって私たちは、神さえもそれが何であるかを掴み取ることができる」といった暗黙の前提が潜んでいます。この理性万能観に異議を申し立て、理性の及ぶ限界を「批判哲学」の名で提示したのがカントなのです。その第一作が有名な『純粋理性批判』です。

 カントのドイツ語「理性Vernunft」は、ラテン語のratio(計算、比率)由来で、英語でreason、デカルトのフランス語ではraisonとなっています。遡れば、ギリシア語の「ロゴス」(比、論理、言語、理性)に行き当たります。

「人間はロゴス的動物である」はアリストテレスの有名な言葉ですが、これは「理性的動物」とも「言語的動物」とも訳されます。もともとが、割り切れるの意味の「比」から来ていることから、言語も論理も、世界をそれぞれの記号で「割り切る」つまり「区分けする」役割が持たせられているのです。従って、理性はその区分けする力によって、世界をわかりやすく分割・分類し、万人が理解できる形にしてくれることになります。

 世界を分割する道具「理性」以前に、「感覚」によって私たちの捉える世界が、生物によって個別に分割されていることが生物学者ユクスキュルによって示されたことは、理性の問題を考える上でも大きな意味を持っています(ユクスキュル『生物から見た世界』日高敏隆ら訳、2005年、1934年原書初版)。たとえば私たちの時間識別の最小単位(瞬間)は100メートル競走の掲示に使われる0.1秒よりさらに小さな0.05秒ですが、カタツムリはその10倍の0.3~0.4秒程度が「瞬間」であることが実験で示されています(同書pp.55-56)。

 空間感覚でも、ハエの見る世界や、イヌの見る世界はヒトが見る世界とは異なっており(同書カバー写真)、感覚による制限によって個々に異なる「認識の限界」の中で生物は生きていることになります。ユクスキュルは、この認識限界によって区分けされる世界を「環世界」と名づけ、中に入ると世界がまったく異なるシャボン玉に例えています(同p.8)。

 理性によってなら、時間や空間は無限分割できますが、ルート2に象徴される無理数を現実の一次元の線上に置くことはできません。ルート2は、二次元面での1対1直角三角形によってようやく現れる点であり、一次元で流れる時間は、無理数の単位を跳び越えるアナだらけの流れということになります。割り切れない「無理数」が発見されたときに、これは「悪魔の数だ」と畏怖されましたが、理性はいまや無理数の存在も「割り切って」いるのです。

 AI君、あなたに尋ねましょう。「理性はすべてを割り切って、私たちに理解させてくれるのでしょうか」「あなたのことを、理性は理解できると思いますか」。いやそもそも、理性とはいったい何だと思いますか。

 グーグルの対話型AIアプリSiriに話しかけてみましょう。「Hey Siri 理性って何?」。その答えは、

 人間に本来的に備わっているとされる知的能力の一つです。言い換えれば推論(reasoning)能力です。世界理性というときは人間の能力という意味ではなく、世界を統べる原理、という意味になります。

 おいおい、それは、ウイキペディアの丸読みじゃないか。やれやれ、AI君、君がカントになるのにあと何年待てばいいのかね。