5,私は自分を浪費しない人間である

 前回は、リースマンの問いかけ「何のための豊かさ、誰のための豊かさ」について皆さんの声を聞かせてもらいました。「心の安定」「それに加えてドキドキする躍動感」「ラクビーに通じる三銃士のOne for all, All for one の精神」「我欲と利他の精神のせめぎ合い。最近の政治家には、誰のための豊かさか、の精神が欠けている」など、多彩なご意見で盛り上がりました。

 本日は、『この人を見よ』の「なぜ私はかくも怜悧なのか 一」(pp.43-50)を取り上げます。冒頭に出てくる「自分を浪費しない人間」とはいったい何の意味でしょうか。ニーチェは、何かをしながら、あとで後悔をするようなことはしない、いや、したりしたら、判断を誤るばかりなので、「しない」というのです(p.44)。結論が簡単に見通せるようなテーマについては、直観的にスル―してしまう、ということだと思います。そのようなテーマは、彼によれば「神」「魂の不滅」「救済」「彼岸」で「これらは私がこれまで注意を払ったこともなければ、そのために時間を割いたこともない概念」(同)なのだそうです。

 ニーチェに言わせると「神とは一つの大づかみな答えであり、何とも不味(まず)い料理なのである」(p.44)と、料理の味に例えてしまう始末です。そして、「私は成熟した大人の年齢になるまでずっとろくな食事をして来なかった」と語り、神に関する問題を、「非個性的で」「無私で」「愛他的な」食事ばかりしてきた、と例えるのです(p.46)。

 こんな具合に、ニーチェはドイツ、イギリス、フランスの文化論までを食事に例えて、トクトクと語っています。これが実に面白い。ドイツ料理は「煮こみすぎた肉。脂(あぶら)と粉でどろどろにした野菜のごった煮。文鎮と見紛うまでのお団子の化物!…これに加えて、まさに牛飲とでもいうべき食後の飲酒癖」と述べ、「ドイツ精神はもたれた胃の腑から生まれたもの」とこけ降ろしています(pp.46-47)。

 イギリス料理などは、もっとひどい言い方ですね。「精神に重い足をくっつける」それも「イギリス女のあの足をくっつけたようなものだと私には思える」と語り「人肉食への復帰を意味している」とまで言うのです(p.47)。これって、どんな意味?

 ニーチェがあげる思索者にとっての食事の戒律五カ条は以下の通りです(pp.49-50)。
1、 消食よりも大食の方が良い。胃が活動的になって、消化が良くなるからである。
2、 テーブル席で、だらだらと長たらしい食事の仕方は良くない。
3、 間食やコーヒーも良くない。紅茶は朝だけなら健康に良いが、ほんの少し、それも濃い方が良い。ちょっとでも、薄すぎると、有害で、一日中気持ちをだらけさせる。
4、 気候風土によっては、紅茶を最初に飲むのはすすめない。一時間前に、一杯の脱脂ココアの濃いのを口にすることから始めるのが良い。
5、 できるだけ腰を掛けないようにすること。筋肉の運動を伴わないで生まれた思想は信用するな。すべての偏見は内臓から来る。

 さてさて、皆さん、ニーチェ流の思索と食事との関係、どう思いますか?「長っ尻は、精霊に背く本当の罪」(p.50)って、いったい何が言いたいのでしょう?