5,非道徳的な芸術家としての神

 前回は、ペリクレスの演説をニーチェが引用したのは、ショーペンハウアーへの批判ではないか、とのコメントをお一人からいただきました。この方は、フランスの哲学者ドゥルーズの読み手であり、『ニーチェと哲学』(足立和浩訳、国文社)をもとにお話しをしていただけると思います。また、お一人が、カラヴァッジョの絵画ディオニュソス(ローマ名バッカス)を紹介してくれます。

 本日は「自己批評の試み」五(『悲劇の誕生』pp.19-22)を読んで行きます。ここにおけるテーマは、端的に言って、道徳批判であり、芸術こそが形而上学の「主題」である、ということにほかなりません。いっさいの現象の背後にあるのは「非道徳的な芸術家としての神である」(p.19)とニーチェは宣言し、「いろいろな世界を創造することによって、充実と過剰のくるしみ、自分のなかにひしめいているさまざまな対立の悩みから自分を解放する芸術家としての神なのである」と断言します(p.20)。

 ニーチェは、「道徳的主題の徹底的図式化として、人類がこれまで耳を傾けてきたもののなかで最も極端なもの」(p.21)と断定するキリスト教への強烈な批判を展開します。「ひたすら道徳的であり、道徳的であることを欲している」キリスト教の教えは、「芸術をすべて、虚偽の世界へと追放し」「否定し、弾劾し、断罪する」とまで断言するニーチェは、「生に敵対するもの、生そのものに対する深いうらみのこもった、復讐に燃えた嫌悪」(p.21)をかぎつけるのです。

 ニーチェに言わせれば、道徳の前では「生はいつでも、間違ったものとされざるをえず、―ついには、軽侮と永遠の否定の重圧のもとに押しつぶされ、それ自体価値のないものへと感ぜざるをえなくなる」のであり、道徳は「生を否定する意志」であり、「ひそかな破壊本能」であって、「終わりの始まり」であり「危険のなかの危険」なのです(p.22)。

 「だからこそ当時、私の本能は、生を弁護する本能として、この本で道徳に歯向かった」のであり、「反キリスト教的な反対教義を編み出し」「それをディオニュソス的な教えと呼んだ」(p.23)というのです。

 キリスト教は「始めから、生が生に対しておぼえる嘔吐・倦怠」であり、「現世」に対する憎悪や美と感性に対する恐怖を「よりよい生」の信仰のもとに仮装されたものが「一番危険な、いちばん不気味な」彼岸信仰である(pp.21-22)、とまでニーチェは言い切っています。

 さて、みなさん、ここで展開されているニーチェの道徳観・宗教論と芸術論に対して、どのように考えますか。宗教は現世を否定し、「天国」や「彼岸」への入りを最終的な目的とするものなのでしょうか。いっさいの現象の背後には、「芸術家的な心と底意」が働いており、それはいわば「非道徳的な神」(p.19)と言えるものなのでしょうか。皆さんには言いたいことがたくさんあるに違いありません。大いに、議論したいところですね。