6、「オチ」のポイエーシス

 お配りした小論「『オチ』の構造」(「記号学研究5」『ポイエーシス:芸術の記号論』北斗出版、1985.6、pp.243ー254)は、「オチ」がいかにして「新しい認識」を開いてくれるのか、について、SFのショート・ショートを題材に考察したものです。

 ご覧のように、題材となっているのは三つの作品「最終戦争」「酋長(チーフ)」「既視感」の三本です。どれもあっという間に読めて、その「オチ」に「なーんだ」と感心させられる作品ばかりです。「最終戦争」「既視感」とは、タイトルそのものがキーワードになっていますが、「酋長(チーフ)」はガイガーカウンターがキーワードです。こちらは、タイトルを「ガイガーカウンター」にすると、ストーリーの途中で結論のどんでん返しがわかってしまうので、タイトルからは隠されています。

 「最終戦争」は、人類を絶滅に導く最終兵器といえば核兵器である、と思い込んでいる読者に、実は「弓矢」の発明が未開社会にはすでに「最終兵器」にあたる大量殺戮兵器であった、ことに気づかせる知的なオチになっています。「酋長(チーフ)」は、ガイガーカウンターが神の役目をし、神を生贄として殺して食べた未開人が、自らが放射能を身の中に入れてしまう皮肉をオチで終えています。「既視感」は、SF雑誌の投稿者のマンネリにうんざりしているストーリーの語り手が、実はその短編そのものの筆者であることが最後に示唆され、自身のマンネリぶりに気づかない愚かさがオチになっています。
 
 さて、実は「既視感」のテーマは、哲学者ラッセルが見出した通称「嘘つきパラドックス」の世界とつながるのです。

 「私は嘘つきだ」と、誰かが言ったとしましょう。彼が本当に嘘つきならば、彼の言明は偽りなので、彼は嘘つきではないことになり、矛盾が起きます。彼が、嘘つきでなければ、彼の言明は真となって彼は嘘つきということになるので、これも矛盾が起きます。このように、自分の発言が自分自身に戻ってきて、言明がぐるぐる回りになることを「自己言及性」と呼びます。

 自己言及は、「嘘つきパラドックス」のような単純なパラドックスとして問題にされるだけでなく、「粗忽長屋」のような落語のオチにも登場します。

 浅草観音詣でに来た八五郎が、同じ長屋の熊五郎が行き倒れているのを見つけ、長屋に取って返して熊五郎に「お前が死んでいる」と告げます。「そんなばかな、俺はほれ生きている」と熊五郎は主張しますが、「あれはお前だ」との八五郎の言葉に、浅草観音まで首実検に出かけます。死体を見た途端「やや、これは俺だ」と熊五郎は死体を担いで帰ろうとしますが、あきれる周囲の声や役人たちの制止に
「どうもわからなくなった」と首を傾げながら、つぶやきます。「担がれているのは確かに俺だが、担いでいる俺はいったい誰だろう」

 「名探偵ポアロ」で知られる推理作家アガサ・クリスティは、初期の傑作「アクロイド殺人事件」で、語り手が真犯人であるという禁じ手を使って物議をかもしました。これは、さきほどのSF短編「既視感」で作者が使ったのと同質の自己言及性のオチです。

 自己言及は、古くて新しい哲学的問題:二つの自己[「考える私」と「考えられる私」]の問題としても登場します。この「自分が自分に関わる」自己言及性が、今期のメインテーマ「オートポイエーシス」への重要な入り口になります。