6、「無」は「偽―観念」である

 前回は、私という存在について「私」と「自分」、「見る私(主観)」と「見られる私(客観)」、「書斎の私」と「社会の私」など、プラトン由来の二分法(分割法)を使って、私自身の分割を試みました。この二元的な「二つの私」の思考方法の中に、「無は偽―観念である」というベルクソンの秀逸な考え方が登場することを、私たちは見ることになります。

 ベルクソンの「存在と無」についての詳細な分析とも言えるのが、お渡しした『創造的進化』(ベルグソン全集4、松浪信三郎ら訳、白水社)の記述(pp.310-338)です。ベルクソンはここで、「無」の登場を意識における「消去」(なくすこと)と「否定」(そうではないと言うこと)の二つに分けて分析し、最終的に無が人為的に作られている「偽ー観念」であることを示していきます。

 私たちが眼を閉じ、耳をふさぎ、宇宙から光も物質もあらゆる存在を一つ一つ消していってみましょう。すべてを消し去ったあとに、次は、自分の身体を消していき、そして最後にその意識そのものを消してみましょう。しかし、そこに残るのは消えた意識を意識している別な意識の登場です。結局、無の表象は、こうした過程に登場する存在のすべてを包含しており、「一切のものの消滅という観念は、おそらく、四角な円という観念と同じ性格を示すことになり、それはもはや一つの観念ではなく、一つの語でしかない」(同p.317)とベルクソンは断じ、さらに「無とか空虚という語で否定的に言い表されているものは、すべて思考よりもむしろ気分であり、あるいはいっそう適切にいえば、思考の気分的な色づけである」(同p.318)とさえも言い切るのです。

 ハイデガーの有名なテーゼ「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」や、サルトルが「存在のまつわりに嘔吐を禁じえない」主人公を創出(『嘔吐』)するなど、存在はプラトン、アリストテレス以来の哲学の大テーマです。彼らにとって、無は最大の謎なのですが、ベルクソン的な考えによれば、ハイデガーもサルトルも、存在の謎に首をかしげながら、その実、無を恋焦がれている、とも言えるのです。

 「否定」による「無」つまり「ない」という観念も、「精神が潜在的な肯定に対してとる一つの態度でしかない」(同p.324)とベルクソンは断じます。たとえば、誰かが「私」について、あれやこれやと論評したとしましょう。それは、私にとってみれば、違う私の表明であり、それは単に「自分自身」「本当の私」などと名づければ名づけることのできる「私」とは違うことを肯定しているに過ぎないことになるのです。

 「この部屋には何もない」というとき、それはその部屋が空虚であることではなく「自分にとって役に立つものが不在である」とベルクソンは断じ、「何もない空虚としての無が、すべての事物に先住するという考えが、われわれのうちに根をおろす。われわれが一掃しようとこころみたのは、かかる錯覚である」(同p.337)。

 さて、錯覚かどうか、皆さんのご意見は?