6、『ティート帝の慈悲』と『レクイエム』

 レクイエムの作曲を依頼されたころ、モーツァルトは『魔笛』に加えて皇帝レオポルト2世のボヘミア王戴冠式のための式典オペラ『ティート帝の慈悲』作曲も頼まれていました。この三つの大曲が重なり合って、ほぼ同時進行していたのですから、モーツァルトの忙しさは想像を絶するほどであった、と推定してもいいでしょう。事実、ニッセンの伝記にはこの時期のモーツァルトについて、「創造の魔人にとり憑かれた彼は、昼夜を分かたず、あまりに疲れ果ててたびたび失神し、しまいに数分間は意識が戻らなかった」と書いています。

 ヨーゼフ2世の死去後、レオポルト2世の治世になって、音楽家や詩人など、芸術家と皇帝との関係は激変しました。モーツァルトとの絶妙なコンビで『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』を生みだした宮廷詩人ダ・ポンテが職を解かれ(1791春)、マッツォラに変わりました。サリエリは、引き続き宮廷楽長の地位にいましたが、レオポルト2世の受けは必ずしも良くなかったようです(ダ・ポンテの日記によれば、「我慢のならないエゴイストで陰謀家」とこき下ろしたことになっています)。

 サリエリ本人はといえば、公務の多忙と自分にかけられた陰謀などに煩わされ、レオポルト2世のボヘミア王戴冠式用式典オペラの依頼を5回も断わり、引き受けませんでした(1791.8末 エステルハージ候への手紙)。その結果、『ティート帝の慈悲』の仕事がモーツァルトに、いわば、ころがりこんできた、というわけです。

 1791年の出来事を時系列で追ってみましょう。

春?
 「モーツァルトは古くからの馴染みだったシカネーダーの劇場のために、また、彼の求めで、その窮状を救うために『魔笛』を作曲した。…彼(シカネーダー)はモーツァルトのところにやって来て、状況を説明し、自分を救えるのは彼だけだと言った。…オペラをぼくのために書いてほしい。完璧に今のウィーンの大衆好みのものを。君ならきっと、玄人を満足させるばかりでなく、君の評判もあげられる」
               (ニッセンの伝記より)

7.9 興行師グァルダゾーニが、レオポルト2世のボヘミア王戴冠式で上演する新作オペラ作成をボヘミア統治団と契約。

7.16~ グァルダゾーニがモーツァルトに会って、オペラ『ティート帝の慈悲』の作曲を依頼。報酬は200ドゥカーテン(~900フローリン)

7~ 見知らぬ使者が現れ、ある名高い方のために『レクイエム』を作曲して欲しいと依頼。モーツァルトは、期間4週間、謝礼100ドゥカーテン(~450フローリン)で引き受ける。このころ、『魔笛』のほとんどを作曲し終える。

7.26 コンスタンツェが、四男フランツ・クサーヴァー(1791-1844)を出産。

8.25? モーツァルト夫妻がプラハに発とうとしたとき、『レクイエム』の依頼人が「幽霊のように」現れ、コンスタンツェの旅行用マントの縁をつかんで「『レクイエム』は一体どうなるのでしょう」と訊く。モーツァルトは、この旅行の必要性を述べ、戻ったら第一に手を付けますから、と約束。
「このオペラ(『ティート帝の慈悲』)の仕事は、旅の馬車の中で、ウィーンからプラハへの道中で始まり、彼はプラハで18日あとに仕上げた」
                (ニッセンの伝記より)

8.26 宮廷楽長サリエリが、20人の楽士を連れて、プラハに到着。モーツァルトの『ミサ・プレヴィス ハ長調(通称 ピッコロ・ミサ)k.258』『戴冠式ミサ ハ長調 k.317』『戴冠式ミサ ハ長調 k.337』を帯同。

8.28 モーツァルトとコンスタンツェが、ジュースマイヤーを伴ってプラハに到着。おそらく、支援者のドゥーシェク家ベルトラムカ荘に滞在。

8.29 皇帝レオポルト2世到着。王城に滞在。

8.30 皇后マリーア・ルイーザ到着。

9.1 戴冠式の広間で、100人の人々が食事会。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』が器楽演奏される。

9.2 旧市街の国立劇場(ノスティツ劇場。現エステート劇場(スタヴォフスケー劇場))で、『ドン・ジョヴァンニ』上演。皇帝・皇后隣席。
 「お城からオペラハウスまでの全道程は、皇帝のご様子を見てみたい人々が殺到した。…私は、…緑色の上着を着た小男を見つけた。モーツァルトだった」(ドイツ人作家クライスト)。

 この上演を、モーツァルトが指揮、とも言われるが、確証はない。ちなみに、ノスティツ劇場は、『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』のプラハ初演が行われたところです。

9.4 聖ヴィート大聖堂において、戴冠式直前の式典が行われ、サリエリ指揮でモーツァルトの『主の御憐みを(ミゼリコルディアス・ドミニ)ニ短調k222』が演奏された可能性。

9.5 モーツァルトの『全作品目録』に、翌6日に上演する『ティート帝の慈悲』が書き込まれる。

9.6 聖ヴィート大聖堂において戴冠式式典。プラハ大司教が皇帝の左肩に聖油を塗る。
 サリエリが、モーツァルトの『戴冠式ミサ ハ長調k317』(あるいは戴冠式ミサ ハ長調k337)を指揮。

 夜、国立劇場で、『ティート帝の慈悲』上演(入場無料で一般開放)。「最も退屈なオペラ」(ツィンツェンドルフ伯爵の日記)「ドイツ流のお粗末な出来ばえの作品」(皇后)「当代の恥と言うべきだが、オペラ・セリア(悲歌劇)なため、この真の天上の音楽にふさわしいほどには、一般には喜ばれなかった」(ニーメチェク)

9.8 上流婦人のための王立女子修道院長に皇女マリーア・アンナが任命され、サリエリがモーツァルトの『ピッコロ・ミサk.258』を指揮。

9.9 プラハの分団<授冠の三本柱の真実と和合>を訪問したモーツァルトが、カンタータ『フリーメイスンの喜びk471』で歓迎され、深く感動する。

9.15~ モーツァルト、ウィーンに戻る。

9.28 モーツァルト、『魔笛』の最後に作曲した「序曲」と、「祭司たちの行進曲」を『全自作品目録』に記入。

9.30 ウィーンのアン・デア・ヴィーデン劇場で『魔笛』の初演。モーツァルトは、フォルテピアノを弾きながら指揮。シカネーダーがパパゲーノ役。

10.7 『魔笛』の初演後、再びバーデンで療養に入ったコンスタンツェに、モーツァルトが「(『魔笛』は)いつもの通り大入り満員」と手紙。

10.8 モーツァルト、『レクイエム』の作曲を開始、床につく11.20までの間で、作曲にあてられた時間は、せいぜい一ヶ月ちょっと(ロビンズ・ランドンの推計)。

10~ 謎の使者が再び現れる。「あと4週間待って欲しい」とモーツァルト。「彼がどこに行くのか尾行したが、つけていたのがうかつな連中だったのか、うまくまいて逃げられたのかー結局、何もわからなかった。そうなると貴族とおぼしき人物は彼の死を告げるために、<あの世>と密接につながっている、あるいは<あの世>から遣わされた、まことに奇妙な人物だとモーツァルトはすっかり思い込んでしまった」
(1798年12月19日付『一般音楽新聞』の記事)

10.27~28 「よく晴れたある秋の日に、気分を引き立てるために、(コンスタンツェは)彼を馬車でプラターに連れ出し、二人だけで座っていた時、モーツァルトは死について語り始めた。彼は『レクイエム』を自分のために書いていると言い張った。…ぼくはあまり長くないのを、強く感じる。確かに、ぼくは毒を盛られたのだ!」
              (ニッセンの伝記)

12.4 モーツァルトの死。
 「ジュースマイヤーがモーツァルトのベッドの傍らにいました。よく知られた『レクイエム』が掛けぶとんの上に乗せられ、モーツァルトは彼に、自分が死んだら、どのように考えて完成すべきなのかを説明していました。…最後に、『レクイエム』の中の太鼓の一節を、口で表そうとする仕草をしました。今でもまだ、それが聞こえてくるようです」
  (ゾフィ―・ハイベルの証言)