6、ああ、願回、ああ、願回

 孔門十哲のなかで、「この人」といえば願回でしょう(『論語』に19回登場)。十余年間の諸国放浪の末、孔子を故郷魯の国に呼び戻した宰相季康子が、「あなたの弟子の中で、もっとも学に優れたものは誰か」と聞いたとき、孔子は「願回です。これほど学問好きなものはほかにはおりません。残念ながら短命で死にました」と答えています(先進第十一)。「学を好む」を単なる学問好き、とするのではなく、「学を愛していた」と訳し、学を知に置き換えて、「知を愛していた」としたいところです。知を愛すとは、すなわち「愛知」であり、ギリシア語のフィロソフィア、つまり哲学することを意味するからです。

 願回は、何よりも知的探究心が旺盛で、絶えず物事の本質を捉えようとして、止むことがなかったのだと思います。「学ぶ」とはつまるところ、常に己の無知を自覚し、「無知の知」のソクラテスの位置に自らを置くことだからです。アップルの創業者にしてiphoneを世に出し、今日のAI-インターネット時代の祖となったスチーブ・ジョブズの有名な言葉に「Be stupid」(愚かになれ)があります。これこそ、学びの本質であり、ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑博士の「教科書を信じるな」に通じるものではないでしょうか。

 孔子は、願回が死んだとき「天は我を滅ぼせり」(先進第十一)と嘆いたほど、願回の存在は極めて大きなものでした。その願回は貧乏であることを気にしない(先進第十一)ソクラテスのような人でした。孔子曰く。「彼は、私の言うことをすべて理解し、質問も意見もしない」「願回は私の言葉にさからわない。ばかみたいに見えるが、ほかの弟子たちとの言動を見ていると、人をはっとさせるものがある。彼はばかではない」(為政第二)。

 孔子があるとき、同門の秀才子貢に「お前と願回とどちらがすぐれていると思うか」と聞きました。子貢は「私は一を聞いて二を知るもの、願回は一を聞いて十を知るもの」と答えます。すると孔子自身が「お前だけじゃない。私も願回には及ばないよ」(公冶長第五)と答えたというのです。彼の死に「天は我を滅ぼせり」(先進第十一)と嘆いたのもむべなるかな、ですし、願回は「さとりの状態に近い(回や其れ庶き乎)」(先進第十一)と、孔子が述べた言葉も、願回の存在の本質を一言で表したものとして注目されますね。

 願回が「仁とは何ですか」と孔子に聞くと孔子は、見たり、聞いたり、言ったり、行動したりのすべてにおいて、礼にのっとって行動しなさい、それが仁を実現させることである、というような答えをします。願回は「私は到らないものですが、お言葉のようにすることに努めます」と、答えます(願淵第十二)。仁は、一言で言えば「思いやり」、礼は日々の言動において大事にすべき原理、と言えば、まあ、それほど間違いはないと思います。相手のことを尊重して、日々、言葉や行いに注意して行動すれば、思いやりに満ちた社会が実現する、とするのが孔子の教えの根本と考えていいでしょう。

 孔門の十哲の一言表現、子路「38回。勇猛果敢」、子貢「36回。一を聞いて二を知る」「願回」(19回。一を聞いて十を知る)「閌子騫」(5回。孝の実践者)「冉伯牛」(2回。薄幸の才人)「仲弓」(6回。家柄に引け目)「宰我」(4回。朽木・糞土)「冉有」(13回。多芸にして商才)「子遊」(仁の実践者)「子夏」(学究の人) 皆さんの評価は?