6、ショーペンハウアー ナマケモノがナマケモノである理由

 前回は、お一人が越路吹雪の「枯葉」を聞かせてくれ、五木寛之の人生100年時代の「白秋期」(50-75歳)の黄昏美を感じさせてくれました。ヘーゲル人気の陰に隠れて閑古鳥が鳴いていたベルリン大学教員時代、寂しく愛犬と散歩する姿ばかりが浮かぶ終生独り者―

 今回は、この憂鬱そのもののようなショーペンハウアー(1788-1860)が、実は意志の持ち様一つで世界が変わることを示した哲学者であったお話をすることにいたしましょう(『意志と表象としての世界』(西尾幹二訳、中公クラシックスⅠ~Ⅲ)。
 
 彼の哲学を簡単に言えば、宇宙の構造から地球のあり方に至るまで、この世界の在り様は、人間の意志によって創り上げられたもの(表象:representation=心的イメージや考え)に過ぎず、人間が消滅すればすべて消えてしまう(無になる)、という考え方です。意志は、大きくみれば生命力の一つの形で、すべての生命は「生きようとする意志」「生きることによってどのようになりたいか」により、現在の形やあり方になっている、と考えるのです。わかりやすい例として、ショーペンハウアーはナマケモノと堅いコンクリート突き破って来るキノコのことをあげています。

 ナマケモノがいまあるような姿形と生活様式を得たのは、樹上でほかの動物たちと争いごとを起さずに、ぶら下がって葉を食べて暮らすことを望んだその意志の結果である、といい、1841年6月2日の『タイムズ』に掲載されている大きな敷き石を持ち上げて頭をもたげた3-4本のキノコは「眼に見える世界へ躍り出ようとする内的衝動の力による、と言うのです(ラルフ・ヴィーナー編著『笑うショーペンハウアー』酒田健一訳、白水社、pp.49-50)。このキノコの話など、日本でもコンクリートの地面を破って芽を出す逞しい植物の話題「ど根性ダイコン」を思い出しますね。

 意志の力について、ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』において「意志がなければ、表象もないし、世界もない」と断じ、「生きんとする意志こそがわれわれ自身であり、それがまたわれわれの世界なのである」と言っています(『意志と表象としての世界』Ⅲ、pp.241-242)。そして最後に、実に含蓄のある一文で、この書を結ぶのです。

「われわれはとらわれなしにこう告白しよう。意志を完全なまでになくしてしまった後に残るものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。しかし、これを逆にして考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人々にとっては、これほどまでに現実的にみえるこのわれわれの世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めてー無なのである」(同書Ⅲ、p..244)

 意志の力によって世界を無化するこの精神のあり方は、一つの禅僧を思わせます。さらに、なりたい自分を意識し、そこに向かってひたすら意志を集中すれば、そのなりたい自分になれるとするならば、なにやらナマケモノの話が、実を帯びてくるような気がしてきませんか。

 ある大手総合電機会社で、「私は忍者になる」と、その存在を実質的に隠して定年まで勤め上げた「天才」がいます。さて、皆さんはどうでしょうか。なりたい自分へとひたすら自分を形作り、今日の「皆さん」を創り上げてきたのではないでしょうか。