6、モーツァルトの作曲技法

「ぼくは詩的なものを書けません。詩人ではありませんから。ぼくは表現を巧みにえがきわけて影や光を生み出すことはできません。画家ではないからです。そればかりかぼくは、ほのめかしや身ぶりでぼくの感情や考えを表すこともできません。ぼくは踊り手ではありませんから。でも、音でならそれができます。ぼくは音楽家ですから」(1777年11月8日。マンハイムからザルツブルクの父への手紙)
「ぼくは作曲家で、楽長となるように生まれついています。神さまがこんなにも豊かに与えてくださった作曲の才能(と高慢でなくそう言えます。いまほどそれを感じていることはありませんから)、それを埋もれさせてはいけませんし、埋もらせることはできません。…実を言えば、作曲のためならクラヴィーアを犠牲にしてもいいくらいです。クラヴィーアはぼくの余技にすぎませんからね」「みんなぼくの作品がパリで特に受けるだろうという意見です。その点ぼくは全然心配していないのは確かです。というのは、御存知の通り、ぼくはどんな様式の作曲でも、かなりうまく取り入れたり、模倣したりできますからね」(マンハイムよりザルツブルクの父へ。1778年2月7日)
「きのう、プファルツ選帝侯国大使ジョッキンゲン伯爵のところへ二度目の訪問をしました。…彼は魅力ある紳士で、情熱的な愛好家であり、本当の音楽通です。ぼくは彼の家で、たったひとりの客として、八時間も過ごしました。ぼくらは午前と午後と、夜は十時までずっとクラヴィーアのそばにいて、あらゆる種類の音楽を弾き比べーほめたり、感心したり、分析したり、議論したり、批評したりしました。彼はオペラの総譜(スコア)を三十冊くらい持っているのです」(パリよりザルツブルクの父へ。1778年5月29日)
「ぼくはバッハによって実にすばらしく作曲されている『どこから来たのかわしにはわからない』云々のアリアも、練習のために書きました。そのきっかけは、ぼくがバッハの曲をとってもよく知っているし、たいへん気に入っていたし、いつも耳のなかで鳴っていたからです。それをすっかり無視して、バッハのとはまったくちがうアリアが作れるものかどうか、試してみたかったからです。-結局、まったく似ても似つかないもの、ぜんぜん違うものができ上がりました」(マンハイムよりザルツブルクの父へ。1778年2月28日)
「ぼくのオペラにはあらゆる種類の人たちのための音楽があります」(1780年12.16 ミュンヘンからザルツブルクの父へ)
「最愛のお父さん!
激情というものは、それが激しくあろうとなかろうと、けっして嫌悪感を催すほどに表現されてはいけません。そして音楽は、どんなに恐ろしい場面でも、けっして耳障りであってはならず、やはり楽しませなくてはなりません。つまり、つねに音楽であることが必要です」(1781年9.26ヴィーンからザルツブルクの父へ)