6、三人の子どもと一本の笛

 前回の関連として、次のようなペーパーを受講生の方々にお配りしました。

5「無関心というアイデンティティー」の付記
                             
<三種類の無関心>

disconnect 1、無関心な状態、精神的なつながりを断っていること
2、分離すること、一貫性のないこと

apathy ギリシア語 apatheia a-(-のない)+pathy(感情)
  (物事に)無感動[冷淡]であること、(~に対する)無関心(indifference)
  ⇒ pathos(パトス)  ⇒passion  感情、熱情、激情

indifference 1、(~への/~に関しての)無関心、冷淡さ、無頓着
      2、(~にとって)重要でない事、月並み、平凡
      3、中立、中性
                          (ジーニアス英和大辞典)

<「創成の力」としてのハイデガーの関心(Sorgeゾルゲ)>

Sorge (英語 care) 1、心配、不安、憂慮、懸念
          2、世話、配慮
sorgen 1、<人・事を> 心配する、気遣う
    2、<人・物の> 世話をする、面倒を見る(子供・病人・家庭・家畜・花壇などの);用意[仕度]を引き受ける<食事の>;手配する<医者・タクシーなどを>
3、<人・事のために> 気を配る、骨を折る<ある事が実現・達成されるように>
                        (マイスター独和辞典)

 ハイデガー存在論の要諦は、私たちが世界の中に存在するのではなく、私たちの存在が世界そのものを形作っていく(いる)のだ、という点にあることをまずは確認したい。世界を形成(創成)する実存概念が「ゾルゲ(関心)」である。英語のcareにあたるこの言葉は、日本語では「気遣い」「配慮」がもっとも近いだろう。私たちは「気遣い」によって世界とつながっている、いやむしろ、気遣いこそが世界を「存在化させる」のである。存在化させる、とは、生かす(活かす)、の意味にもなり、創成する、の意味にもなる。
 夏のこの暑い日々に、水やりを忘れると鉢の植物は確実に枯れてしまう。「水やり」という気遣いが、鉢植えの植物を生かして(活かして)いるのである。女性が、自分の服装に気遣わなくなったならば、ファッション業界は死んでしまう。ファッションを存続させているのは、この女性たちの「気遣い」である。東日本大震災の被災地・被災者たちの復興・再生も、人々の「気遣い」の存続にかかっている。上野さんが常々問題にしている「無縁社会」は、私たちが知らないうちに多くの人々を「気遣いの外に追いやっている」現実を表している。ハイデガー的な無関心は、その対象を「非在化」するのである。
 
 一口に「無関心」といっても、このように多様な意味があります。「関心」は、ハイデガーの重要なキーワードですので、ハイデガーの視点からも、無関心の問題を考えてみました。

 受講生の一人が、日本人のアイデンティティーを取り上げ、共同体としての相互扶助の関係を築いてきた日本社会が「無縁社会化」していることに改めて危惧を表明しました。
日本人の古き良きアイデンティティーを取り戻すためには、象徴としての「鎮守の森」のようなものが必要なのではないか、とのご意見は、傾聴に値するものでした。

 本日のテーマである、一本の笛を三人の子どものだれが受け取るべきか、は、アリストテレスの『政治学』のなかに、よく似た話が出て来ます。この議論は、どの考えが正しいと言えるのでしょうか。アリストテレスにならって、笛は音楽を演奏するためにあるから、その目的に沿えば「笛を吹けるアンがもらうべきである」との意見がでました。アーティストである受講生は、「作った人がもらうべきだ」と言いました。遺産相続という現実問題に照らせば、それぞれの状況次第で、一番貧しい者にあげるべきだ、という場合も起こり、一般論では論じられない、というまことに最もな声も出ました。

 ハーバード白熱教室のマイケル・サンデル教授は、アリストテレスの『政治学』の議論を踏まえて、「アリストテレスの答えは、笛を最も上手に吹く人だ」と言っています(マイケル・サンデル『これからの『正義』の話をしよう』鬼澤忍訳、早川書房、2010.5、p.242)
 さて、どうでしょうか。アリストテレスが現代に生まれていたならば、やはり同じような判断を下したでしょうか。
 アリストテレスの本当の言いたかったことは何なのか。それは、次回にお話しすることに致しましょう。

<レジメ>
 「完全に公正な社会の不偏的な唯一の解という問題の核心には、いずれも不偏性を主張しながら、互いに異なる複数の競合し合う正義の諸理由の存立可能性の問題がある。この問題を、一本の笛を巡って言い争っている三人の子供8アン、ボブ、カーラのだれがその笛を与えられるべきかという例題によって考えてみよう。…」
              (アマルティア・セン『正義のアイデア』p.46)

 一本の笛を巡る三人の子どもの争い話は、それぞれの主張にそれなりの根拠がある場合に、誰の主張が正しいか、選択が困難なわかりやすい事例である。
 アンは、ただ一人笛を吹ける自分に権利があると主張する。ボブは、一番貧しくておもちゃを持っていない自分に権利があると主張する。カーラは、その笛は自分が精魂込めて作ったものだから、自分がもらうのは当然だ、と主張する。センによれば、功利主義者はアンを支持、経済平等主義者はボブを支持、リバタリアンはカーラを支持するだろう、と言う。
 イソップ物語の次の寓話は、本質的な意味で同一のテーマを含んでいる。

 おんどりをつかまえたイタチは、えものを食べるのにもっともらしい理由をつけたいと考えた。まず、夜のうちから大声で鳴いて、人が眠るのを邪魔するるからだ、と言った。すると、おんどりは、人が寝ているのを起こすのは、いつもの仕事につかせるためで、人の役に立っている、と言い返した。いたちは、おんどりが母どりや姉妹たちとまじわるのを自然の理にそむく、と理屈をつけた。これにも、おんどりは、そのおかげで卵をたくさん産んで飼い主の役に立っている、とやり返した。

 さて、これに対していたちはどう答えただろうか。
 「あれこれとかっこうのよいいいわけをしてもむだだ。いずれにしろおれは腹をすかしているわけにはいかない」 
 そう言って、結局おんどりを食べてしまった、とさ。
 このイタチとおんどりの逸話は、どのように正義論と関係してくるのだろうか。どのような理屈をあげようと、決定をする集団が一つの確定的な結論を用意しているならば、そのどの理屈も退けられて、決定者の意図通りに事が行われてしまう、ということだろう。現実の社会の中で、そのような例を探してみたい。皆さんも、どうぞ身近な例をあげて下さい。