6、何を真似するのか、何が真似されるのか

 人間が造り出したAIロボットの身体に、人間の脳情報を転送・コピーすることによって、人間が永遠の生命を得ることが、SF映画の「チャッピー」は暗示されていました。これに対して「西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一を感じた」とのコメントが飛び出しています。チャッピーが、「死すべき運命」の人間(過去)と、「永遠の生命」を保証された新型生命体(未来)とが、「いま」に現実化していることを考えれば、これはまさに絶対矛盾的自己同一のわかりやすいモデルになるのかもしれません。視点を変えれば、チャッピーは、身体は仮の宿りであり、永遠なのは心(魂)であるとの、ソクラテスの考え方(『パイドン』)にも通じていく物語とも言えるでしょう。

 前回お配りした鈴木啓二「ミメシスと想像力」(『表象のディスクール④イメージ 不可視なるものの強度』小林康夫・松浦寿輝編、東大出版会、2000.4)は、17、18世紀の「自然主義」(リアリズム)に対し、ボードレールが『1859年のサロン』で展開した想像力賛美の一論を中心に、プラトン以来の「芸術模倣説」に対して、想像力の創造性を謳いあげる芸術の流れを対比的に記述したものです。クールベ的な「網膜主義」(マルセル・デュシャンの言葉)に対して、ボードレールは「私は私の幻想が生み出す怪物たちを好む」と、一つの挑戦状を突きつけました。しかし、ボードレールが持ち出した「想像力」は、「真似」(ミメーシス)とはまったく対極にある「無からの創造」になるのでしょうか。

 『余白の芸術』の李兎煥(りゆはん)が言う「欲望」は、「何かを生み出そうとする意欲」と置き換えることができます。それが一つのイメージを生み、それを感覚的に表現したのがアートと言えるでしょう。イメージのもとは、潜在意識(無意識)から外部とのコミュニケーションによって育まれるものもあり、その出所は多彩です。ユングが言うように、潜在意識が時空を越えてつながっているとするならば、私たちが自らの想像力によって生み出したと思うイメージも、太古の記憶の再現に過ぎないのかもしれません。あるいは、プラトンが『メノン』で描き出したように、私たちの知識やイメージが、前世の記憶に基づいているとするならば、すべては前世の「コピー」にほかならなくなります。

 ダ・ヴィンチの創造の源は、徹底した観察にありました。モナ・リザも最後の晩餐も、その根底には解剖までして身体の構造と仕組みを理解しようとしたその姿勢から生れたものです。魚の骨を粘土に押し当てたピカソの傑作絵皿は、まさしく自然物のコピーによって産出されています。彼ら優れた芸術家が、美と考える造形や色彩も、結局はゲーテ的な美の「原型」を、背後に背負ったものなのではないでしょうか。それら「美の原型」は、プラトンの「美のイデア」を分有したものに過ぎず、芸術が生み出すいかなる作品も、所詮はイデアの何らかのコピーである、とも言えるのです。

 AIロボットの「チャッピー」も、人間が人間を真似した、「コピー」に過ぎません。彼がいかなるアートをつくろうとも、人間であるプラトンが到達した美の原型イデアを離れることは出来ないでしょう。私たちはひょっとして、再びプラトンの懐に導かれているのではないでしょうか。いや、アートはすべてプラトンの軍門に下ることになりませんか。