6、余計なことに手出しをしないのが「正義」だ

           第四巻七~同十三(320- 351頁、429A-438D)

七、「勇気」が存在するのは軍人である。良く染まった染物のように、いかなる快楽や苦痛・恐怖・欲望によっても身から離れないように教育によって勇気を染みつけなければならない。
八、「節制」とは、内なる魂のすぐれた部分が劣った部分を制御している状態であり、これを「おのれに克つ」とも呼ぶ。国家にあてはめれば、多数のつまらぬ人たちのいだく欲望が、数の少ないよりすぐれた人たちの欲望と思慮のもとで制御されている状態のことである。
九、 「節制」は、一部の人たちに存在する「知恵」や「勇気」と違って、国家の全体に調和的に行きわたっている。
一〇、自分のことだけをして余計なことに手出しをしないことが「正義」だ。
一一、一人一人の性格と品性が国家の性格と品性を決める。
一二、相反するものが同時に現実化することはない。
一三、すべての人間は、みな善いものを欲求する。

 ここでは、一○章の「自分のことだけをして余計なことに手出しをしないことが正義だ」について考えてみたいと思います。「余計なこと」とは、靴屋が大工の仕事に口出ししたり、金儲けを得てとする人が戦士に口出ししたり、戦士が守護者の仕事に口出ししたりすることのことです。『国家』で何度も繰り返されているように、人には生まれつきの素質によって最もふさわしい仕事が決まっており、いってみれば、すべての国民にその最適な仕事が割り振られたとき、国家は理想形となる、がプラトンの考えだからです。
「餅は餅屋」の徹底と言えるでしょう。

 こうしたプラトンの考え方は、一見、理に適っており、もっともに見えますが、現実には「本物の餅屋」ばかりではない(不適格な餅屋や疑似餅屋など)、という問題点があります。さらに、それぞれの職へのニーズと求められる数はアンバランスで、すべての人間に「適職」を割り当てることは事実上不可能です。給与の高い仕事への倍率は高く、ハードで報いの少ない仕事への希望は多いとは言えないでしょう。

 その仕事への適・不適をどのように、だれが決めるのか、も問題ですね。

★ 七回以後の予定です。

7、 第四巻一四~第五巻三(351-387頁、438D-452E)
8、 第五巻四~第五巻九(387-415頁、452E-461E)
9、 第五巻一○~第五巻一六(415-445頁、461E-471C)
10、 第五巻一七~第五巻二二(445 -475頁、471C-480A)