6、内なる声が神を求める

 神は道徳的知性者というより、「美の降臨者」ではないだろうか。

内なる声が神を求める
「彼が自分の不注意から心ならずも義務に違反したとする。彼はそのために必ずしも他人に対して責任を負っているわけではないが、しかし厳粛な自責の念は彼の内心において発言しその言葉はあたかも彼が自己の非行について申し開きせねばならぬ裁判官の声であるかのように響くであろう。約言すれば、彼は道徳的知性者を必要とするのである。いやしくも彼が人間として或る目的のために実在するからには、この目的に従って彼と世界との原因であるような存在者をもたねばならないからである」(pp.160-161)

★サブ・テクスト:トマス・マン『ヴェネチアに死す』(岸美光訳、光文社)pp.85-92

 トマス・マンの『ヴェネチアに死す』は、理性と悟性に全幅の信頼を置く功成り名を遂げた学者、老境の衰えからくる虚しさをいやすためにふとヴェネチアに旅立ち、ある美少年との出会いによって、「感性の啓示」に目覚めていく物語である。このなかでトマス・マンは、プラトンのソクラテス対話編『パイドロス』中のソクラテスとパイドロスの対話を、次のようにトマス・マン流に描写してみせる。
 「パイドロスよ、ただ美だけが、愛に値すると同時に目に見えるものなのだ。…美は、精神的なものの一つの形式だが、ただ一つ美だけが、私たちが感覚で受け取り、感覚で耐えることのできるものなのだ。…美以外の神のものが、つまり理性や徳や真理が、私たち人間の感覚に現れようとしたら、私たちはどうなってしまうだろうか」
それから、トマス・マンは次の言葉を続ける。
 「愛する者は愛される者より神に近い、なぜなら愛する者の中には神がいて、愛される者の中にはいないからである」
 神は、愛するという行為者の中に「降りてくる」のである。神は、私たちが求めるものではない。それは、私たちの愛する行為に、「宿る」のである。とすれば、神を「私たちのもの」とするのは、造作もないことだ。ひたすら、愛すること、そこに尽きる。愛する対象は、人でなくとも何でもよい。愛するとは、その対象に夢中になることである。その対象を慈(いつく)しむことである。何かを愛すれば、その対象に優しくなる。これは、 世界そのものを平和に導く、もっとも有効な手段ではないだろうか。
カントの言い方は、私たちの「内なる声」すなわち「良心」が、責務の念を導出して善なる行為に至らしめる、というものである。その結果、世界から不合理が排除され、世界に平和と安定が訪れるようになる、と考えたのである。さて、神はいずれの形で「存在化」されるのか、自責の念か、愛する行為なのか。カントに反して、美への希求、すなわち愛の力が、世界に平和をもたらす、と考えたいところなのだが。