6、和辻哲郎  人は本性的に受容的であり、

         幸福は偶然に落ち込んでくる。

 西田幾多郎を中心にできあがってきた哲学の京都学派は、戦時中に軍から「大東亜共栄圏」を正当化するための哲学思想構築に協力するよう依頼を受け、そこでの参加者と発言の内容が、のちに「大島メモ」と名づけられた西田門下・大島康正の記録によって明らかになっています(参考:大橋良介『京都学派と日本海軍ー新資料「大島メモ」をめぐって』PHP選書、2001.12)。和辻哲郎はこの会合の参加者ではありませんが、彼の主著『倫理学』(岩波書店)を見る限りでは、軍からの働きかけがあっても不思議ではない民族主義的な香りがするのは否めません(とくに下巻のpp.392-400参照)。

 この日(2013.2.12)は、受講生の一人が、和辻哲郎の『古寺巡礼』(岩波文庫、1947年3月初版)を題材に、「イデーを見る眼」について話をしてくれました。「イデーを見る眼」とは、同じ京都学派の哲学者・谷川徹三の造語で、抽象的なイデアを具体的なもののなかに見て取る力のことです。奈良の法隆寺にある百済観音について、和辻は「抽象的な『天』が、具象的な『仏』に変化する」と書いている。これを典型的な例として、和辻のことを「『イデーを見る眼』を強力にもった人」と評したのです(『古寺巡礼』のあとがきより)。
 この話に対して、画家である受講生が
「芸術表現にたずさわるものは、いつもそのような眼でもって、抽象的な何かを具体のなかで表現しようとしています」
 とコメントしてくれました。
 発表してくれた受講生は
「和辻哲郎は、哲学者というより一大教養人というべき人のような気がします」

★以下は、この日に受講生に配布したレジメです。

幸福は、いかにして私たちのもとへとやってくるのだろうか。それは偶然に過ぎないのか、それとも私たちの意志が引き寄せるものなのだろうか

和辻哲郎  人は本性的に受容的であり、幸福は偶然に落ち込んでくる。
(和辻哲郎「カント実践理性批判」『和辻哲郎全集9』岩波書店、p.269)

「我々理性的なる『人』は、単にただ自発的でのみあるのではない。人は本姓上自発的。受容的なのである。受容的なる者、すなわち感性的なる者である限り、人は常に有限な、欠乏的な、足りない、従って足らせようと要求するところの者(ein bedϋrftiges Wesen)であって、理性といえどもこの受容性の側からの充足の要求を拒むことはできない。そこでこの足りなさを充たすように我々の全存在の上へ偶然的に落ち込んで来て、そうしてこの存在を足らせるところの、外からの流入、-すなわち偶然的に仕合わせることーそれが幸福なのである」(『和辻哲郎全集9』岩波書店、p.269)

 幸福に関してのカントの主張は、次のようなものだったはずである。「道徳は本来、いかにしてわれわれはわれわれを幸福になすべきかという教えではなくて、いかにしてわれわれは幸福に値するようにならなければならないかという教えである」
(カント『実践理性批判』波多野精一・宮本和吉訳、岩波文庫、184頁)。
 では、いかにしたらわれわれは幸福に値する人間になることができるのか。それをカントは、我々が最高の善を獲得したときだと言う。最高善の獲得したときとは、いわば神の意志に我々の行動が一致したときである。最高の善とは、神の状態そのものであり、我々の行動がそこに一致するとき、我々は徳の完成をみる、と言うのである。そこに向かってひたすら永遠に努力することこそが、真の道徳的生き方であるとカントは説く。これに続く次の箇所は、神にさえも冒すことのできない人間の尊厳を唱えたカントの核心である。
 「もろもろの目的の秩序において、人間は目的自体である。人間はなんぴとによっても(神によってさえも)決して単に手段として使用されえない。人間性はわれわれ自身に対して神聖でなければならない。人間は道徳的法則の主体であり、それ自身神聖なるものの主体である。この道徳法則は自由意志としての人間の意志の自律に基づく。自由意志はその普遍的法則に従って必然的に、みずからが服従しなければならないところのものに同時に一致しえなければならないのである」(同186頁)。
 カントの唱える幸せは、和辻の言うようなめぐり合わせ的な「仕合せ」ではない。ひたすら人間の尊厳を思い、最上善を目指して生きた結果として降りてくるものなのである。