6、寛容の哲学

 ヴォルテールが『カンディード』を書いて「最善説」への大いなる疑問を発してから3年近くが経過した1761年10月13日夜、南仏のトゥルーズで悲惨な事件が起きました。カルヴァン派のプロテスタント、ジョン・カラスが、息子殺しの容疑でカトリック市民たちの告発を受け、死刑にされたのです。スイス・ジュネーヴの近郊フェルネーに隠棲していたヴォルテールは、この事件に大いなる義憤を抱き、カラスの名誉回復のために奔走し、1765年3月7日に国王ルイ15世承認のもとで無罪を勝ち取らせるのです。このいきさつをまとめ、狂信を批判し「寛容」の精神の重要性を説いたのが『寛容論』(斉藤悦則訳、光文社文庫)です。

 『カンディード』にも、プロテスタントの一分派である「再洗礼派」のジャックなる男が出てきましたが、ユダヤ教、カトリック、ギリシア正教、プロテスタントのルター派にカルヴァン派など、フランスだけでなくヨーロッパの各国で「同胞として生活し、ひとしく社会の幸せのために貢献している」(『寛容論』、p.44)、と単純に考えていたヴォルテールにとっては、宗教対立の奥深さを露呈したジョン・カラスの事件は、大きなショックだったのです。

 ヴォルテールは、トルコ、インド、ペルシア、ロシア、中国、そして日本の例まで持ち出して、それこそフランス以外の世界では、宗教的寛容がむしろ普通であることを指摘します。「(インドやペルシアでは)、われわれは異教徒への寛容と社会の平穏を見ることが出来る」(p.48)、「ピョートル大帝はその巨大な帝国においてあらゆる信仰を保護した」(p.48)「中国の皇帝のうち、最も寛大な皇帝である雍正帝は、イエズス会士を不寛容だとの理由で追放した」(p.49」「「日本人は、全人類のうちでもっとも寛容な国民であった」(同p.50)。

 「寛容」の意味について、この事件の不条理を暴くために駆け回っていた1764年にロンドンで初版を上梓した『哲学辞典』(高橋安光訳、法政大学出版局)において、ヴォルテールはキリスト教を最高に不寛容な宗教、とまで言い切っています。

 「寛容とは何であるか。それは人類愛の領分である。われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられている。われわれの愚行をたがいに宥しあおう。これが自然の第一の掟である」(p.386)「あらゆる宗教のうちでキリスト教がおそらくもっとも寛容を鼓吹すべきであろうに、今日までのキリスト教徒はあらゆる人間のうちでもっとも不寛容であった」(p.389)

 『寛容論』の結語において、ヴォルテールはこう語りかけています。

 「自然は、人間たちの全員にむかって、こう語りますー
 私はおまえたち人間を、そろって虚弱で無知なるものとして生み出した。それは、おまえたちをこの地上でほんの短いあいだ生きさせて、そして、おまえたちの遺体をこの大地の養分にするためである。おまえたちは虚弱なのだから、たがいに助けあわねばならない。おまえたちは無知なのだから、たがいにものを教えあい、我慢しあわねばならない。

 おまえたちがそろって同じ意見になったばあい、といってもそういうことはけっしてありえないのだが、もしもそうなったばあい、そこで反対の意見を言う者がたったひとりしかいなくても、おまえたちはそのひとを許さなければならない。なぜなら、かれにそのような考えを抱かせたのは、ほかならぬこの私だからだ」(『寛容論』pp.215-216)