6、平等と自由

「平等は、18世紀のヨーロッパやアメリカの革命の主要な要求であっただけでなく、啓蒙運動以後の世界においてその重要性については並外れたコンセンサスが存在した。私は以前、『不平等の再検討』において、近代の社会正義に関する規範的理論で、人々に支持されてきたものはいずれも、その理論が特に重要と見なすものについての平等を要求していると述べたことがある」    
            (アマルティア・セン『正義のアイデア』p.417)
 
 前回は、女性の潜在能力を開花させるような現実的方図を提案したマーサC.ヌスバウムの議論に一人の受講生が賛同し、豊かさと便利さを追求してきた日本人が不幸の底に堕ちている愚を描き出した佐伯啓思著の『反・幸福論』(新潮新書)を参考にあげました。別な受講生は、日本人と比較されるブータンの幸福度が極めて高いというデータを疑問視し、「とても幸福、まあ幸福、幸福ではない、しか答えがなく、普通がない。普通の人は、まあ幸福、を選ぶしかなくなり、全体の幸福度があがたのではないか」と問題提起しました。ある受講生のように「幸福の問題を経済学者が議論すること」に対しての強い疑念を表明する人もいます。

 今回は、第14章「平等と自由」をめぐって議論します。平等が自由と裏表にあることを明確に意識して書かれたのが、センがここで引用している前書『不平等の再検討-潜在能力と自由』(池本幸生他訳、岩波書店1999.7)です。センはここで、いたずらな平等論議に異を唱え、大事なのは「何の平等か」を問うことだ、と訴えかけたのです。仮に「幸福」を、「満たされた感覚」としましょうか。収入が同じでも、人によって欲求や欲望が違いますから、ライフスタイルが違えば満足感も違います。いくら富があっても家族愛に恵まれていなければ不幸に感じ、富に恵まれていなくても家族に恵まれているだけで十分幸せな人たちもいます。

 富だけでなく、教育や医療、介護、さまざまな分野において、何かを平等にしようとすると、何かが不平等になる、そんな構造が浮かび上がってきます。政策的な予算配分だけを考えても、どこかを平等に手当しようと厚くすれば、どこかが薄くなって不平等感が広がります。しかし、幸福をめぐる議論は、所詮は資金の「配分」、言葉を変えると、経済的な分配の問題に還元されてしまうのでしょうか。もしそうならば、幸福とは何かというアリストテレス以来の哲学的問題は、何かつまらない問題になってしまう気がします。

 平等の問題は、本当は自由の問題なのではないでしょうか。不平等とは、それによって誰かが何かを自由にできなくなるから問題なのです。ある不平等があっても、誰もその自由を奪われることがなければ、その不平等は問題にはなりません。自由を奪わない不平等が存在するとしたら、それを探すのも一つの手でしょう。せむしに対してニーチェの発した「そのままでいい」は、一つのヒントになる気がします。江戸時代の日本人が貧しくても幸福だった、との外国人たちの報告が目からウロコの渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房、1998.9)も大いに参考になると思います。