6、怪談としての遠野物語

 前回は、山本健吉や折口信夫がともに、柳田の根本的関心は「神」である、と考えていたことを紹介しました。しかし、どうなのでしょうか。仙人に関心を示し、神隠しやお狐さまなどとの神秘体験を持っていた柳田は、佐々木喜善の話に神を感じていたのでしょうか。当時の柳田が、文人たちのグループと頻繁に開いていた会合は、神の問題を探究するのではなく、「お化け話」「怪談」であったことが、手紙のやり取りや関係した文人たちの話から浮き上がってくるのです。東雅夫の『遠野物語と怪談の時代』(角川選書)から、『遠野物語』誕生の時代背景と柳田の心の中を覗いてみることにしましょう。

 柳田が佐々木喜善の話をもとに『遠野物語』を書いていたころは、文人たちのサロンで「お化け話」や「怪談話」を話し合うのが大変な流行を見せていました。泉鏡花や田山花袋、国木田独歩らが、料亭などの場で「お化け会」「怪談会」をかなり頻繁に開いていました。柳田國男もそうした文人の一人であり、柳田の屋敷でも開かれていたのです。遠野から上京していた佐々木喜善も「少年の時から臆病な癖に、バカに妖怪変化の譚(ものがたり)が好き」(p.161)な青年で、「怪談通」で知られる水野葉舟と気脈が通じ、その縁で柳田宅へ訪問(明治41年11月4日)することになるのです。

 喜善の日記によれば「学校から帰っていると水野君が来て共に柳田さんの処に行った。お化話して帰った」(p.200)とあります。喜善の柳田宅への訪問が、「お化け」の話をするためであったかに思わせる内容が、喜善が「岩手毎日新聞」に連載した一文(明治42年4月ー10月)の「4月28日」と題された回にも伺えます。

 「今夜はお化会のある夜なので、牛込の柳田氏邸へ行く」との書き出しで、「はははは全くあなたはお化の問屋ですね」(柳田)「問屋は恐縮します、はははは」(喜善)といった会話が紹介されているのです(pp.201-203)。柳田自身は、水野の紹介で初めて喜善と会って話を聞いたときの印象を、のちに次のように回想しています。

 「小説を書いていた水野葉舟が、ある時『珍しい男がいますよ。昔話なら、いくらでも知っているから、連れてきましょうか』と教えてくれました。…ところが、いろいろ話すが、なんとしても、ナマリがひどくて言葉が通じない。だんだんわかるようになりましたが、佐々木は、私のことを道楽でやっているとでも思ったのでしょう。はじめのうちは、バカにしている風が見えました。しかし私は話を持っているのには、ともかく、びっくりしました。ちょっと異常心理をおこしたりしましたね」(昭和28年1月1日「岩手日報」p.200)。

 柳田は、『遠野物語』を出す半年前(明治43年6月)に、博文館の雑誌「中学世界」に「怪談の研究」なる一文を載せています。それ以前にも「幽冥談」(明治38年9月)「天狗の話」(明治42年3月)といった妖怪談を書いた実績があります(p.20)。柳田が喜善の「お化け話」を単なる「昔話」と回想したのは、さていかなる心積もりがあったのか。

 ちなみに、『遠野物語』を献呈されて読んだ喜善は「かつて私の口よりお話上げし事のある物語ともおぼえず さながら西洋の物語にても見る心地いたされ候」「とに角 形見共に非常に完全に近き物語、異国語りの生まれしことを誰よりも、貴方よりより多く喜ぶ者にて候」と、明治43年6月18日の日付のある礼状にしたためています(p.211)。

 さて、これから皆さんに、『遠野物語』の第99話、津波にさらわれたはずの妻が別の男と歩いてくるのに出会った喜善の叔父の話を、喜善からの聞き書きによる葉舟のもの(pp.193-194)、喜善自身が書いたもの(pp.194-195)、そして、この話を元に別の作家が生み出した創作(pp.226-230)とを読み比べてもらうことにしましょう。皆さんは、どの「話」にもっとも心を打たれますか?そして、それはなぜでしょうか。