6、節度ある生活こそ幸福のもと

       ー談論「プラトンに憲法的意識はあったか」ー

 前回は、プラトンの法律論議には、支配される側を守るべき”法“としての憲法的な発想が希薄なのではないか、との声が出されました。これに対してお一人が、3.684A-Bの記述をとりあげ「王が法律を守っている限り、民衆は王を助ける、とある。これは一種の立憲主義なのではないか」、との見方を示しました。      

 お一人は、プラトンの『法律』を読み進めていくと、「祈り」が重要な要素である感じがする、との見解を披露しました。祈りとは、神に向き合うことであり、別のお一人がその言葉を受けて、『法律』では祈りを中心とした「神の法」が、憲法のような役割を担っていたのではないか、との見方を示しました。

 また、3.679cの文中で「高雅な」という表現があり、これは文脈には合わないのではないか、何を言いたいのか、と、疑問が出ました。ここの原語は、εὐήθεια (エウ・ヘーテイア)で、goodness of heart(心根の良さ), guilelessness (たくらみのないこと、正直なこと、誠実なこと)と訳されます。日本語の高雅は「けだかくみやびやかなこと」(広辞苑)ですから、確かに岩波文庫の訳語は適切ではないですね。

 英訳では noble character となっており、これに引きずられたのかもしれません。勁草書房の『プラトン著作集第二巻』(式部久訳)では「純良な品性」と訳されていて、こちらのほうが適訳と言えるでしょう。お一人は「みんな同じだと、穏やかな、争いのない、とげとげしていない」という訳語はどうか、と提案してくれました。

 ちなみに、ギリシア語の接頭辞εὐ(エウ)は、「良い」を意味し、ήθεια(ヘーテイア)は「立派さ」「信頼の置けること」などの意味があります。

ほかの方々のご意見もあげておきます。

 「洪水などによって、文明や技術がなくなって伝承されなくなった、という話がありますが、これは古代の話とは限らず、知識・技術はなくなる可能性があることを感じました」「家父長制、長老支配から立法へと進む、ということがよくわかりました。願望は自分の叡智に従わなければならない、というところが印象に残りました」「この時代の人も歴史から学んでいたのだな、と。しかし、この時代のいろんなことを経て立憲主義は確立してきたのかな、と。それが今、揺らいでいる、という話をこのところ、よく耳にします」

 「法律とは何なのだろう、と考えさせられました。当時は社会の規範と法がどのように関連したのだろう」「プラトンの『法律』には、具体化する手段がいささか欠けているのではないか。それを徳だ、知性だ、と言うのでは」「プラトンの理想は誰の理想なのだろう。理想的な理想はあるのか。実体的な理想、イデア、を法律においても推し進めている、と思います」

 さて、今回は、第三巻九~一六を読み進めます。ここでプラトンは、彼らが作ろうとしている国家の「法」の目的を、自由、友愛、思慮、に置くと明言しています(3.693B, 同D)。3.701Dでは、思慮に代わって「知性νόοςヌース)が使われています。

 自由:ἐλεύθερος (エレウテロス) 英語のfree に対応し、拘束されない気ままさ、を意味します。
 友愛:φίλος フィロソフィー(愛知)の「フィロ」にあたり、知を愛するの「愛」と同じ単語です。
 知性:νόος (ヌース)ときに理性とも訳されます。自然哲学者アナクサゴラスは、宇宙の存在原理としてこのヌースを置きましたが、ソクラテスは「私が法廷で裁かれることの理由は、ヌースでは説明できない」として、新しい原理「ロゴス」を提起するに至っています(プラトン『パイドン』98a-100a)。

 このような国家を作るのに何よりも重視されているのが、あたかも「隠れた徳」のように扱われている(696D-E)「節制σωφροσύνηソープロシュネー」(節度とも訳される)の役割です。単に勇気といっても、暴走すればそれは無謀にすぎず破綻のもとになります。節度のともなった勇気こそが、求められるものであり、すべての精神状態において、この節度を導入することが私たちを幸福へと導くもの、だとするのです。

 σωφροσύνη: 節制、節度、慎み、正気、分別、自制、慎重、思慮、穏健 などの意味をもちます。

 「ソープロシュネー」は、プラトンのソクラテス対話篇『カルミデス』の重要なテーマで、それが何かをめぐってソクラテスと若者カルミデスの間で対話が繰り広げられています。

 『法律』におけるここでの議論は、「中庸」(メソン:中間のこと)の概念に近く、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』や『エウデモス倫理学』などで展開した中庸論の土台になったことは容易に推定できます。なにしろアリストテレスは、プラトンのアカデメイアで長いこと学頭プラトンの事実上の補佐役として受講生たちにプラトン哲学を講じていましたから。アリストテレスによれば、たとえば勇気とは「無謀」と「臆病」の中間概念です(アリストテレス『エウデモス倫理学』1220b30-1221a10の表参照)。

 ちなみにアリストテレスは、プラトンのイデア論が、必ずしも現実的・具体的行動に人を導かないことを見てとっていました。彼の有名な格言じみた言葉を参考までにあげておきます。

 「ひとは家を建てることによって、建築師となり、琴を弾くことによって、琴弾きとなる。それとちょうど同じように、われわれは正しいことをすることによって、正しいひとになり、節制あることをすることによって、節制あるひとになり、勇気あることをすることによって勇気あるひとになるのである」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』(1103a30-1103b)

 さて、みなさんはこれをどう見るでしょうか。「家を建てる」のがどういうことか私たちはわかっていますが、「正しいことをする」「節制あることをする」「勇気あることをする」がどのような行為なのか、わかっているとは限らないから悩むのではないでしょうか。

 とはいえ、このアリストテレスの言葉の妙な説得力には、半ば感心してしまうのですが。