6、近松門左衛門とハムレット 虚実皮膜論

 さて皆さん。近松門左衛門(1653-1725)と言えば、ご存知、シェークスピア(1564-1616)のほぼ半世紀後の日本の江戸時代に活躍した代表的な人形浄瑠璃の作家です。歌舞伎作家からスタートし、のちに浄瑠璃作家となり、『曽根崎心中』『冥土の飛脚』『国性爺合戦』『心中天網島』などの傑作を多発しました。

 彼の残した有名な芸道論が「芸は虚実の皮膜の間にあり」です。「皮膜」とは「ひまく」「あるいは「ひにく」とも読みますが、「皮のような膜」転じて「区別しがたいようなわずかの違い」と、『広辞苑』にはあります。近松の言いたかったのは「虚にして虚ならず、実にして実ならず、この間にある」と言うのです。嘘と本当との間に真実がある、とするのが正鵠を得ているでしょう。

 『ハムレット』のようなシェークスピアの作品は人間が演じる劇、近松の一連の作品は人形に演じさせる劇の違いはありますが、舞台上で演じられる物語であることに変わりはありません。物語ですから、現実のものではなく、所詮は「作り話」です。その作り話によって、観客をあたかも「本当のように」思わせて観客を感動させたり、怖がらせたりするのに、何が最も大事あるかを、近松は一言「虚と実の間」で表現したのです。

 この言葉は、芸術における「現実」と「非現実」という普遍的な問題とつながっています。芸術とは、すべて「作り物」(非現実)ですから、それが現実の存在である私たちに、現実であるかのような「幻想」を抱かせるのは「なぜか」の問いがもたらされるからです。近松の言葉「虚実皮膜の間」に惹かれて、カナダの映画監督マーティ・グロスは、人形浄瑠璃『冥土の飛脚』を90分の映画にしつらえて答えを求め、答えを提示しようとしました。

 グロスの結論は「文楽を文楽たらしめる神業的な魔法(マジック)は、観客の視点からこそ起こる」というものでした(近松門左衛門の芸術論「虚実皮膜」じゃぽブログp.7)。人間が演じる演劇に比べ、心のない人形に動きだけでその心を演じさせる浄瑠璃は、人形が演じている人物たちの心根を観客自身が心の中に投影させなければなりません。それこそが、虚でありながら実である、まさに近松の狙っていたことなのではないか、と、グロスは、自らの文楽映像を地下のスタジオで編集しながら「自分だけの文楽を手にしたような気分だった」(同p.8)と告白しています。

 皆さんは、近松の「芸は皮膜の間」の言葉を、グロスの解釈に同意するかどうか、彼の映画作品『冥土の飛脚』を見て考えてもらいましょう。そして、人間が演じる『ハムレット』の場合にも、近松の言葉があてはまるのかどうかも議論してもらうことにいたしましょう。

 ところで、「虚」とはそもそもなんであり、「実」とはそもそも何なのでしょうか。「虚」は文字通り「中身のないこと。うつろ。から」のことで、転じて「事実でないこと。そらごと、うそ」となります(『広辞苑』。「実」はその反対に、「内容のあること。内容。中身」であり、転じて「まこと。本当」となります。果物でたとえれば、中身が詰まっている(実)か、空っぽ(虚)ということになりますね。

 しかし、私たちの日常のすべてが「現実」であると、本当に言えるかどうか、これもまたなかなか興味深いテーマでしょう。