6の談論から 「ともに」(with)の現実化

 前回は、映画『ちいさな哲学者たち』(2011より公開。配給ファントム・フィルム)を観てもらい、皆さんからご意見をいただきました。

 「概念を明確にしようとする姿勢を感じられた。デカルト以来の明晰の考え方がフランスには浸透しているのでしょうか。たとえば、韓国では濁ったものでないとかちが韓国ではない、などと言われていると聞きます」
 「4歳ぐらいの子どもでも、死がどんなものであるかわかっていることに正直驚いている」
 「日本の幼稚園でも、同じような試みをすることができるのではないか」 
 「どうも、ああいう、とことんまで詰めてものを考えようとする文化は、嫌になっちゃう。ああいうことまでやる人たちとは、つき合いたくないなあ」
 「子ども時代からあそこまで物事を深く考えさせる文化と、原発へのストレートな依存・武器輸出に疑問を抱かないように見える心性、といった国民性との関係がどうにもわからない」

 いろいろご意見はありますが、この映画の最高に素晴らしいシーンは、「哲学するってどんなこと」と質問する先生に対して、彼ら(彼女たち)は「考えること」に加えて「聞くこと」と答え、さらに「自分に質問すること」とまで答えたところにあると思います。これは「考えるとは、自分自身との対話である」というプラトンの言葉を彷彿とさせるものでした。哲学の基本である「考える」とは、すなわち自己との対話であり、他者との対話に広げたものが「哲学的問答法」にほかなりません。つまり、問答とは、他者とともに考える、ということなのです。

 平成26年度第Ⅱ期講座プラトンの『国家』を読むⅡ
再々「響き合う議論」 ハイデガーの実存と「ありのままの私」 2014.12.9
で、単に空間の「中に」あるだけの物に対して、人間は他者「とともに」「のそばに」、あるいは他者「に支えられて」存在することを私たちは確認しました。このようなあり方を、ハイデガーは実存と呼んだのです(ハイデガー『存在と時間(上)』桑木努訳、岩波文庫、pp.106-107)。

 映画『ちいさな哲学者たち』は、子どもたちをこの「実存の現場」、すなわち子どもと先生だけでなく子ども同士においても「ともに(with)考える」現場に参画させたことに素晴らしい意味があるのではないでしょうか。
 
 日本でも最近、「ガン哲学」の名称で、ガン患者の心の不安を医師や患者群が一体となって「対話」により減じる試みが行われるようになってきました。つい最近、乗客の人生を親身になって聴いてくれる「幸せタクシー」の存在がNHKのニュース番組でとりあげられることまで起きています。そこでは、乗務員との「対話」によって元気づけられ、リストラされた身から一念発起して、学生用の就活プログラムを開発・運営する会社を立ち上げた人の話が紹介されていました。

 「現実のすべてが夢ではないことがどうしてわかるのか」といった哲学的問題が、幼い子どものたちの疑問にすでに含まれている、とする研究も、アメリカ・ハーバード大学の哲学者G.B.マシューズによって行われています。よろしかったら、G.B.マシューズ『子どもは小さな哲学者』(鈴木晶訳、新思索社、1996.4)にも目を通してください。