6,理想主義への無知が私の真の悲運である

 前回は、私の提起したソクラテス問答法による欲の解放論が、完膚なまでに叩きのめされました。問いを重ねることによって、お金や地位、名誉など俗世の価値への固執から解放させるソクラテスの問答法は「産婆術」と呼ばれていました。新しい魂として生まれ変わらせる、の意味です。

 これに対して、欲がなくなったら、それは単なる腑抜けに等しく、生きる力をむしろ失ってしまうのではないか、との批判が皆さんから出ました。至極ごもっともで、ニーチェの言いたかったことはむしろ「魂の爆発」ではないか、とのご指摘も頂戴しました。

 稲盛さんの「アメーバ経営」の本質は、各自に自分の「立ち位置」を明確に認識させることにあるのではないか、との示唆もいただきました。本日は、ニーチェが、「理想主義」という立ち位置に悩み、いつ、どのような状態で、そこから解放されたか、について告白している『この人を見よ』(「なぜ私はかくも怜悧なのか 二」新潮文庫、pp.50-54)をとりあげます。
 
 ニーチェは、自分の生まれたナウムブルクを始め、幼少期の学びの場であったプフォルタ学院のあるドイツ中央部のテューリング州、さらに教職についていたライプチヒやバーゼルなど、長ずるまでに暮らした地域が、すべて「本来私に禁じられた土地」であったことに思い至った時、これが「不気味な事実」と告白します(p.52)。その地域は、莫大な量の力を「無意味に乱費する」(p.53)ところであり、「迅速な新陳代謝の可能性」(p.51)のない土地だった、とまで言っています。
 
 彼は、天才を育んだ土地として「パリ」「プロヴァンス」「フィレンツェ」「アテーナイ」をあげ、そこはどこも「乾燥した空気や澄み切った空」のあるところだと主張します(p.51)この地で登場した天才とは、誰のことでしょうか。パリではモンパルナスを拠点とした数々の画家たち、プロヴァンスならセザンヌ、フィレンツェならミケランジェロ、アテーナイならそれこそニーチェが攻撃したソクラテス、さらにはプラトン、アリストテレスら哲学者たち、ということになるでしょうか。
 
 ニーチェは、自分が文献学者として成長するまでの地域が「私のすべての失策」「私の生涯の使命にふさわしくない『謙遜』の数々」を生んだのであり、「あの忌ま忌ましい『理想主義』」の原因である、と告白する始末です(p.53)。そして、「わが生涯における真の非運であり、無駄にして愚劣、何ら良い結果を生むことなく。いかなる埋め合わせも償いもしようとはしない何ものなのかなのである」とまで激白するのです(p.53)。
 
 どうも彼が「理想主義」と呼ぶ生き方は、「謙遜」=「自分と他人との距離の忘却」であり、それを「自己喪失状態」だと言います。そのような生き方が我慢を強い、限界点まで達したとき、目覚めて「理性」が動き出し、その後のニーチェが出現した、というわけです。

 組織人間が組織内における自分の立ち位置に気づく稲盛流「アメーバ経営」に通じる、自らのあるべき「立ち位置」に気づいたということですかね。