6,非ギリシア的芸術としてのドイツ音楽

 ニーチェは、ベートーベン生誕百年記念に刊行されたワーグナーの論文「ベートーベン」(1870年)に刺激されて、翌年『悲劇の誕生』を執筆・完成させました(1871年末)。しかし、「ワーグナーにあてた序言」まで書いて持ち上げたワーグナー礼賛は、この自己批評の試みを書いた1886年には、強い反省となってワーグナー批判に徹しています。

 ワーグナーが拠所としたのは、ニーチェも惹かれたショーペンハウアーの哲学です。ショーペンハウアーは「音楽はそれ以外の美術いっさいからまったくかけはなれて」おり「ほかのもろもろの芸術のようなイデアの模像ではなく、意志そのものの模造である」((『意志と表象としての世界』斎藤忍随他訳、白水社p.148、p.151)と音楽を特権視しています。
 
 この考えを引き受けて、ワーグナーは「世界の本質が、認識によって仲介される他の諸芸術に対して、音楽はそのものが世界のイデアであり、その本質を直接表示する」(吉田寛『ヴァーグナーのドイツ』青弓社、同p.268)とし、この本質を芸術に一般的に使われる「美」ではなく「崇高」であるとして、ベートーベンこそ「芸術を美の領域から崇高の領域へと引き上げ、我々に音楽への理解を啓示した」(同p.272)芸術史上の進歩の立役者である、と断じるのです。

 ワーグナーのこの論文は、「ベートーベンとドイツ国民」の題で刊行される予定でした。構想がまとめられたのは、普仏戦争勃発(1870年7月19日)で盛り上がった愛国主義・好戦的な気分の中であり、一か月前の6月26日にミュンヘン宮廷歌劇場で行われた戦場楽劇『ワルキューレ』(フランシス・コッポラ監督の『戦場の黙示禄』で、「ワルキューレの騎行」が使われています)が大好評を博したばかりでした。ワーグナーはこの論文で、「ドイツ精神の本質」が「崇高」としてベートーベンの音楽に凝縮され、その精霊が「不遜な流行」の震源地パリへ向かって高貴な征服を開始している」(同p.284)と書いています。

 ワーグナーの考えで伺われるのは、フランスに対する強烈な対抗意識です。ベートーベン論文の3年前に新聞に連載した『ドイツ芸術とドイツ政治』においてワーグナーは、「フランス文明とドイツ精神の闘い」とまで規定し、「フランスの流行(モード)界に象徴される近代の物質的文明に対する闘争へと全人類を導くことこそが、ドイツ精神の『普遍的使命』である」(同.p.278)と宣言までしているのです。

 1871年1月18日、ドイツ軍はパリに入場しヴェルサイユ宮殿で新ドイツ皇帝ウイルヘルム一世の戴冠式が行われ、ドイツ帝国が誕生しました。ワーグナーは、愛国的音楽家として『皇帝行進曲』を作曲、事実上の国歌として人々に歓迎されました(同p.299)。

 自己批評の試みでニーチェは、自著の出版は「帝国建設というはなばなしい口実のもとに、ドイツ精神が凡庸化へと移っていた時期に当たっていたのだ!」(自己批評の試み六、p.24)「現代のドイツ音楽は、あらゆる芸術形式のなかでも最も非ギリシア的なものであり、麻酔剤ととして酔わせると同時に頭をぼんやりさせる二重の特質を持っている」(同p.25)と、皮肉を超えて罵倒するにいたりました。

 ニーチェの求めたギリシア的とは何か。それは次回以降のお楽しみといたしましょう!