7、『山の人生』VS『奥美濃よもやま話』「新四郎さ」

 ご紹介したように、民俗学者の谷川健一は、『遠野物語』を「異なるもの同士の交渉」の視点で「精霊と人間」(オシラサマ、ザシキワラシなど)「山人と村人」(山男、山女の話など)「他界と村人」(ダンノハナ、デンデラ野の話など)「獣と村人」(猿の経立・狼の経立の話など)の四つをあげています。柳田がとくにこだわりを見せていたのが「山人」で、大正15年10月に『山の人生』なる一作を上梓しています。

 「上古史上の国津神が末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、仙人と呼ばれたと見る」(「山人考」『遠野物語 山の人生』岩波文庫、p.276-277)なる推測のもとに、「神隠し」や「仙人」「鬼」「山姥」などについて論じたものです。柳田の問題意識はそれなりに評価すべきことでしょうが、冒頭「1 山に埋もれたる人生あること」を飾っている「西美濃の炭焼き一家」に起きた惨劇が、物議をかましており、それが柳田の作品のある種の「信憑性」に疑いを投げかけているのです。

 お渡しした資料を参照願いたいのですが、この冒頭は次のように始まります。
「今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子どもを二人まで、鉞で斫り殺したことがあった」(p.93)。

 妻はとっくに死んで、13になる男の子と同じ歳ぐらいのもらい娘の二人と生活していましたが、炭は売れず、一合の米も手に入らない。昼寝をして眼が覚めると「小屋の口いぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという」(p.93)。二人の子どもが仕事で使う斧を磨いて「阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれ」と入口の材木を枕にして仰向けに寝たのを見た炭焼きは「くらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった」というのです。炭焼きは死にきれず、牢に入って60近くになって特赦を受け世に出てきたそうで、「私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ちの底で蝕みつつあるであろう」(pp.93-94)

 柳田はこのころ、内閣法制局の参事官として「特赦」に関する事務を取り扱っていました。「法制局で知った珍しい話」を朝日グラフに連載し、「一番印象の深かった人殺しの刑事事件」の一つが、この炭焼きの話なのです(「故郷七十年」『柳田國男集別巻3』、筑摩書房、p.341)。

 柳田が「偉大なる人間苦の記録」と表現したこの事件について、哲学者・文芸評論家の柄谷公人は「彼は、夕日が照らしている小屋の外で山男がついふらふらと二人の子供をまさかりで斬り殺してしまうこの光景に、いいようもなく感動している。それは農政学者の眼ではなく、またたんに同情的な者の眼でもない。いわば物深いものを感受する眼がある。…柳田はこの事件に『物のあはれ』をみていたといってもよい。犯罪記録を独占的によみふけっていたいた彼は、それらの事件が表現しているもの、というよりただ犯罪という事(行為)としてしか表出されずその内に隠されてしまっている心と言(こと)を読んでいた」(柄谷公人「柳田国男の神」『柳田国男 民俗学の創始者』河出書房新社、p.97)と激賞しています。

 小林秀雄もまた、「さて、炭焼きの話だが、柳田さんが深く心を動かされたのは、子供等の行為に違いあるまいが、この行為は、一体何を語っているのだろう。こんなにもひもじいなら、いっその事死んでしまえというような簡単な事ではあるまい。彼等は、父親の苦労を痛感していた筈である。自分たちが死ねば、阿爺もきっと楽になるだろう。それにしても、そういう烈しい感情が、どうして何の無理もなく、まったく平静で慎重に、斧を磨ぐという行為となって現れたのか。しかし、そういう事をいくら言ってみても仕方がないのである。何故かというと、ここには、仔細らしい心理的説明などを、一切拒絶している何かがあるからです」(小林秀雄『信ずることと知ること』彌生書房、p.201)と、書いています。

 谷川健一は、この惨劇の「直話」が、岐阜県郡上郡明方村の郷土民俗研究家金子貞二がまとめた『奥美濃よもやま話』に載っていることを1980年ごろに知り、惨劇の動機が「貧しさ」からではなく、奉公に出ていた娘が盗みの疑いをかけられて「死にたい」ともらしたことからであることに気づきます(谷川健一責任編集『山の民俗誌』、三一書房、p.2)。

 この疑問をさらに発展させ、当時の事件の警察調書などにもあたって、この事件の真相を調べていったのが現代社会論の内田隆三です(内田隆三『柳田国男と事件の記録』講談社選書、p.7)。内田は、「多くの人が柳田の記述に何かしら心を動かされた。…私もその中の一人」としながらも、柳田の表現と現実に起きた出来事の乖離を指摘し、柳田の表現に存在するある種の“虚偽”を抉り出していくのです。

 谷川と内田の双方が、柳田の「山の人生」冒頭に綴られた話と同一の事件であるとするのが、『奥美濃よもやま話』の「新四郎さ」です。これは、まとめ役の金子貞二が叔父から聞いて書き留めたもので、叔父のところに作男として出入りしていた「新四郎」なる者の打ち明け話なのです。詳細は、お渡しした資料に譲りますが、要約すると

 「炭焼きなどで生計を立てていた新四郎には、死に別れた妻との間に姉と弟の二人の子供がいました。奉公していた家で、若嫁の指輪を盗んだとの疑いをかけられた娘が「死ぬしかない」と訴えます。弟も「姉が死ぬなら自分も殺してくれ」と一緒に泣き出し、三人で一緒に死ぬのが一番だと、新四郎は斧を自ら磨ぎ、こどものアゴを丸太にかけさせ、一気に切り落とし、自分は立ち木に荒縄をかけて首をつります。朝から松蝉の鳴くなまだるい日でした。しかし、縄が切れて死ねず、三年の懲役。…」。

 柳田が「偉大なる人間苦の記録」と表現した事件と、打ち明け話の「新四郎さ」には、谷川のあげた動機の違いだけでなく、斧を磨いだのが子供ではなく親であること、「夕日がいっぱいにさす秋の末の事」と表現されている季節が春から夏場にかけて鳴く松蝉(春ゼミ)の時期であること、もらい子とされている娘が実の子であること、さらには「西美濃」が「奥美濃」であること、など、いくつもの違いがあることにだれもが気づくでしょう。

 「山の人生」の表現に柳田の作為的な文章の”装飾“を感じる内田は、二度にわた
って、「文章はつくるもの」との柳田の文章論を紹介しています(p.86、p.210。 『文章世界』四巻一四号(1909)169頁の「言文の距離」からの引用)。

  「無論文章の為に事実を曲ぐると云うことはよくないに違ひないが、然し実際上に於いて、事実を曲げなかったのと同等、若しくはそれ以上の効果があるとすれば、我々はそれ程極端にまで事実に依らなくても宜い訳である。況や事実とは言條、要するに言葉の端のことで、奥に座った本尊が動く訳でない。言わば文章の構造上のことで、簡易文体の文章など書いて見ると、特にその感を深くする。私はあの文体で、何かしっかりした本を書いてみたいと思って居る位である」

 柳田が『遠野物語』を著したのが、この文章論を書いた直後の明治43年(1910年)6月(35歳)、『山の人生』は大正十五年・昭和元年(1926年)2月(51歳)のときです。柳田は、宗教民俗学者の堀一郎との対談で「まあ『遠野物語』はほとんど文学作品といってよいでしょうね」(岩本由輝『もう一つの遠野物語』刀水書房、p.103)と回想しています。

 「山の人生」と「新四郎さ」との違いは、柳田の”作為“によるものなのか、それとも、単に柳田の記憶違いや警察調書と告白の違い、などによるに過ぎないのか、皆さんはどう考えますか。