7、あの<地獄の炎>を詳しく紹介してほしい…

「もう八時に近い頃で、みなでお茶を飲んだ。しかしまもなくわれらの楽匠はすでに昼食の時にしてあった約束を果たすようにと、しきりに催促された。つまりあの<地獄の炎>を一同に詳しく紹介して欲しいということで、…彼はためらわずに承知した。…すべての崇高で悲劇的な芸術作品に入る敷居には永遠の美の戦慄が漂っているとすれば、今のこの場以上に、いや、これと同じ程度にでもそのことがぴったりするところがほかにあろうか」
               (『旅の日のモーツァルト』p.94)

と、メーリケは『ドン・ジョヴァンニ』の本質に迫っていく。

「人間は日常的な自己から追い出されることを望みながら、同時にそれをこわがっている。人は無限なるものが彼に触れようとするのを感ずる。無限なるものは、彼の胸を押しひろげ、力ずくで精神を奪いとろうとすることによって、彼の胸を締めつけるのである。それに完璧な芸術作品に対する畏怖の念がつけ加わる。この世ならぬ奇蹟を享受し、それを近しいものとして自分のなかに受け入れることが許され、またそうすることができるという考えは、一種の感動、いな誇り、-おそらくわれわれの感じうる最も幸福で、最も純粋な誇りーさえ伴うのである」
                        (同p.95)

この部分こそ、メーリケの嘘偽りのない、『ドン・ジョヴァンニ』評価である。そしてメーリケは、「輝くように美しい六重唱」で、モーツァルトにいったん演奏を終わらせ、夜も十一時を過ぎてから、いよいよニ短調の地獄からの騎士長の声の場面「お前の笑えるのも夜の明けぬうち」に至る。そして燭台を消した中で、最後の地獄落ちの場面が始まるのである。

ドン・ジョヴァンニが身もだえしながら地獄に落ちていくシーンを、メーリケは「その一挙手一投足がすべて溢るるばかりの崇高美を浮かべる時、歓喜と不安のために胸の奥まで戦きふるえない者がいるだろうか? それは猛り狂う自然力の壮麗な景観、あるいは豪華な船の炎上を眺める際に抱くあの驚きに似た感情である。心ならずもわれわれは、いわばこの盲滅法な偉大さに与し、歯がみしつつも、自己破壊の激情にかられて、その苦痛を分かつのだ」(p.101)と評する。

メーリケは、ドン・ジョヴァンニのこのシーンに、「崩壊の美」「死にゆくときの美」を見て取っている。それを「崇高」と言い、豪華船が燃え上がるのを見るときの、私たちの感情と等しいとまで言うのである。それは、「猛り狂う自然の力」が醸し出す美、である、ともメーリケは表現している。モーツァルトがこの場面で描き出したかったのは何だったのだろうか。

メーリケの言うように、「崩壊=死」が我々に見せる不可思議にして奇妙な「美」なのだろうか。モーツァルトが、怒りにも恐れにも、あらゆる感情の底に「美」を見ていたことは、彼の手紙、すなわち、「音楽は美しくなくてはなりません」から容易に知れることである。しかし、醜い、負ともいえる感情に、美が存在するとは、なんという驚きではないだろうか。

「もし<ドン・ジョヴァンニ>が世界中の人々を熱狂させないようでしたら、神様はきっとその音楽の箱をパタンとお閉めになります」
                         (同p.105)
と、メーリケがフランチェスカに言わせたこの言葉は、そのまま現代のわたしたちの気持ちであろう。