7、ジュースマイヤー異聞

 フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー(Franz Xaver Sussmayr)の名前が初めてモーツァルトの口に登場するのは、バーデンで温泉療養中の妻コンスタンツェにあてた手紙(1791.6.7)でした。「きのう、ジュースマイヤーと《ハンガリア王冠》で昼食をとった」と書かれた文中には、シカネーダーの名前も初めて登場します。

 リンツとザルツブルクのほぼ中間に位置するシュヴァーネンシュタット出身のジュースマイヤーは、1766年生まれ(~1803)、モーツァルトとは10歳違いの当時25歳の若者でした。1779年から1787年まで、ベネディクト派の修道院聖歌隊でアルト歌手、テノール歌手、声替わり後はオーケストラのヴァイオリン奏者として活動していました。修道院ではオペラやジングシュピールが上演されたため、グルックやサリエリのオペラを研究する機会を得、修道院のための教会音楽や舞台音楽を作曲することになります。

 同じ修道院で学んだフォーゲル(シューベルトの友人・支援者として知られる歌手:1768-1840)とともにウィーンに定住、サリエリに師事します。モーツァルトと知り合ったのは1790年のこととされ、『魔笛』や『ティート帝の慈悲』の浄書役として補佐し、とくに『ティート帝の慈悲』のレチタティーヴォ・セッコ(セッコは、乾いた、の意味。チェンバロの通奏低音とセリフ状の歌唱部分からなる)は、彼の仕事だったとされています。

 1791年のモーツァルトの手紙には、ジュースマイヤーが「スナイ」あるいは「道化師」、「ザウアーマイヤー」、ときには「某」の名称で、たびたび登場してきます。文面を精査していくと、モーツァルトとコンスタンツェ、そしてジュースマイヤーの関係が透かし見えてきます。

(以下、手紙文は断らない限り、バーデンで温泉療養中の妻コンスタンツェへあてたものです)

6.7 ジュースマイヤーと《ハンガリア王冠》で昼食。(初めて、ジュースマイヤーの名が登場)(《ハンガリア王冠》は、ウィーン市内行きつけの旅館兼料亭)

6? いまバーデンへ向かうところだ。…きみの宮廷道化師に、ぼくからよろしく。

6.25 「ひとつお願いがあります。―妻からの手紙によると、…家主は宿泊費と食事賄い代として(その権利はないにも関わらず)なにがしかのお金をもらえれば喜ぶにちがいないとのことで、私からの送金を望んでいます」(プフベルクへの手紙)
(同日、プフベルクは25フローリンを送金)

6.24or6.25  スナイにお尻一杯の御挨拶をーそして某をたっぷり悩ませてあげるように伝えてくれたまえ。

6.25 ぼくにはいつも道化役がいないとだめだーやつでなければ、あいつ、スナイだ。
…ところで、あすはミサに行かないほうがいいよ。…きみにはきみの無作法な連れがいるがー農家の連中はそんなのに遠慮しない、やつが哀れなkちんぼだとすぐに見抜いてしまうから、一目置くわけがない。スナイのやつめ!
ジュースマイヤーにはじかに答えるよ。

6月末or7月初め スナイによろしく。―彼がどんな調子か知りたいものだ。―たぶん、雄牛のように? ぼくの大事なものを受け取るまで、心こめて書いて欲しいね。―
7.2 あのとんまのジュースマイヤーに伝えてほしい、(『魔笛』の)第一幕のスコアを、導入曲からフィナーレまで送ってくれと。ぼくはそれでオーケストレーションをする。彼があすの朝、始発の馬車で発てるよう、きょうにも荷造りをしておいたほうがいい。そうすれば、ぼくはお昼にはそれを手にすることができる。

7.3 ジュースマイヤーに預けていったもの、すぐに写譜をするのを忘れていないだろうね。スコアのうちのいくつかを、きょう受け取りたいのだ。…
(彼の)手紙によれば、きみたちはまったくワインを飲んでいないようだ。―そりゃ面白くないね。市楽団楽士長に話してごらん。―彼はぼくの支払いできみにおごるなんて間違いなく喜ぶだろう。健康によいワインだし、高くはないからね。しかも水はあまりにも悪いときてる。

7.4 もっと送金したかったけど。ともあれここに3グルデンある。あすのお昼には、もう少し受け取ってもらえる。

7.5 ここに25フローリンある。湯治の費用を払っておきなさい。―今度ぼくが行ったとき、残りの金額をまとめて払おう。ジュースマイヤーはぼくの楽譜の4番と5番(『魔笛』第一幕第四曲、夜の女王のアリア「ああ、恐れおののかなくてもよいのです、わがいとしい息子よ」と第五曲「ウ!ウ!ウ!」)を送り返して欲しい。そして彼にはぼくのお尻をなめなきゃいかんと言っておいてくれよ。

7.5 ぼくの第二の道化師はいま何をしているかな?―二人の道化から選ぶのは苦労するよ!…きょう…荷車につながれている二頭の牛を見た。そして、その牛たちが車を引きはじめたとき、その頭の動きはわが道化の某にそっくりだった。―スナイのやつめだ!

7.6 きみがお金を確かに受け取ったという知らせをもらって、言葉には言い表せないほどうれしかった。…ぼくがいま置かれている最悪の、実に厄介な状況すら、もしきみが健康で陽気にしていると分かれば、取るに足らないことに過ぎないのだ。―では、ごきげんよう。―食卓の道化師を活用したまえ。―ぼくのことを想って、たびたびぼくを話の種にしてくれよ。
…いつまでもぼくを愛してくれ。…ぼくが常にきみの
にょきにょき!―水鉄砲―ぷるんーぷるるんーぴょーんーとんがり坊主、道化師! であるように。―
某に平手打ちを一発くらわせて、言ってやれ、やつの頬にぼくがハエを見つけたんで、あたしが仕止めようと思ったんでーすって! アデュー。

7.7 ザウアーマイヤーにぼくから伝えてほしい。いつも彼のプリームスのところへ駆けつける暇がぼくにはないと。…

7.9 きみの七日の手紙、実際の平手打ち支払いの領収書と一緒に確かに受け取ったよ。ただ、きみ自身のために言うなら、証人のサインをさせてほしかったね。なぜかといえば、もし某が不誠実な手を選ぶとすれば、きょうあすにも…
そこでぼくの忠告は、きみが敵と話し合いで和解すること、…
追伸 ぼくから某へ次のメッセージを伝えてくれたまえ。…
これについて彼はなんというだろうか?喜ぶだろうか?それほどじゃないと思うね、きびしい表現だものね!それにわかりにくいからな。

7.9~7.11 モーツァルト、バーデンに滞在。10日の日曜日には、『ミサ・プレヴィス 変ロ長調』(k275)が、地区の教会で演奏される。

7.16~ グァルダゾーニがモーツァルトに会って、オペラ『ティート帝の慈悲』の作曲を依頼。報酬は200ドゥカーテン(~900フローリン)

7~ 『レクイエム』依頼の謎の使者登場。

7.26 コンスタンツェが、四男フランツ・クサーヴァー(1791-1844)を出産。

8.25?『レクイエム』の依頼人が再登場(ボヘミア王戴冠式のために、モーツァルト夫妻がプラハ出立の馬車に乗ろうとした寸前)
8.28 モーツァルトとコンスタンツェが、ジュースマイヤーを伴ってプラハに到着。おそらく、支援者のドゥーシェク家ベルトラムカ荘に滞在。
戴冠式オペラ『ティート帝の慈悲』の仕事は、旅の馬車の中で、ウィーンからプラハへの道中(8.25-8.28)で始まり、彼はプラハで18日あとに仕上げた」(ニッセンの伝記より)。ジュースマイヤーは、同オペラのレチタティーヴォ・セッコを担当した、とされる。

10.7と10.8  ぼくの名において、…(抹消)に数ペアの平手打ちをあげてくれ。そして…(抹消 おそらくはゾフィー)にも(1000回のキスをあげるけど)やつにいくつかの平手打ちをくわすよう頼んでほしい。…
きみがやつの鼻をザリガニで鋏んでやるのもいいし、やつの目ん玉を殴り飛ばしてやるか、…

10.8,10.9 追伸 ジュースマイヤーにはたっぷり鼻先を指で小突き、もじゃもじゃ髪をぐいぐい引っ張ってやってくれ。

10.14 某とは、きみの好きなようにしたまえ。(モーツァルト最後の手紙)

12? 亡くなる少し前に、モーツァルトは夫人、ジュースマイヤーと共に、『レクイエム』を歌ったが、いくつかの楽章は涙を出すほど彼を憂鬱にした。そして、「もしぼくが死んだら、これが最も重要なところだ」と言いながら、まず「思い出させ給え(レコルダーレ)」と主要なパートを書いた。それが終わると、ジュースマイヤーを傍らに呼び、もしこの作品を完成する前に自分が死んだら、冒頭に書いたフーガを繰り返すこと、また他の部分はすでにスケッチされたものをどこに、どのように、あてるべきかを指示要請した。(コンスタンツェとのインタビューをもとに、ノヴェロ夫妻が再現した話)

12.4 モーツァルトのベッドのそばにはジュースマイヤーがいました。それに掛布団の上には有名な『レクイエム』が置かれ、モーツァルトが、自分の考えはこうこうで、自分が死んだらそれを仕上げてくれるようにと、彼に説明していました(ゾフィーの証言)

 その後のジュースマイヤーは、シカネーダーと組んでオペラを作曲、「アルカディアの鏡」はヨーロッパ中で上演される成功を治め、ウィーン宮廷劇場のドイツ語オペラ楽長の座を得ることになります。1800年までは、ウィーンの音楽界で人気を博していましたが、体調を崩し、1803年に37歳の若さで亡くなり、モーツァルトと同じ聖マルクス墓地に墓碑もなく埋葬されました。生涯、独身でした。