7、ソクラテスの死-肉体は魂の牢獄か

 今回のテキスト「大往生で立ち往生」で、池田ソクラテスは永六輔の著作『大往生』を取り上げて、「死を取り上げた単なる人生論」などとお得意の皮肉をたっぷりと浴びせています。生きていて良かったと死ぬか、生まれてきたことの意味は何かと考えながら死ぬか、などと問いかけ、「大往生」「立ち往生」「往生際」などの往生語呂合わせを楽しんでいるようですね。
 
 フランスの哲学者のジャンケレヴィッチ(1903~1985)は、死を「三人称の死」「二人称の死」「一人称の死」に分類しました。三人称の死は、自分とは関係のない人たちの死、世界中で日常のように起きているいわば「よそ事」です。二人称の死は、身内や友人の死で、「わたし事」としてさまざまな感情が伴います。そして「一人称の死」が、私自身の死で、究極の「わたし事」でありながら、だれもわからないが故に、臨死体験や死後の世界、安楽死など、話題に事欠かない死であることは言うまでもありません。
 
 死刑の判決を「悪法も法である」との有名な言葉を残して毒杯をあおぎ、整然と死へと旅立ったソクラテスの死を、とりあげることにいたしましょう。獄死するまでの弟子たちとの対話の形で繰り広げられるプラトンの対話編『パイドン』(世界の名著『プラトンⅠ』責任編集 田中美知太郎、中央公論社)には、ソクラテスの死についての考え方から、魂のあるべき姿に至るまでが、一編の詩のように綴られています。
 
 死刑の判決をうけたあと、ソクラテスは刑の執行まで、アクロポリスから東に15分ほど離れたプニュクスの丘にある洞窟(右写真)に幽閉されていました。この洞窟で、パイドンを相手にソクラテスは、次のような死生観を話しています。
 
 「死とは、魂の肉体からの離脱であり、哲学者は魂を肉体から解放しようとする者である。私たちの思惟が最も働くのは、魂が聴覚、視覚、苦痛、快楽といった肉体的なものに煩わされず、真実を追及するときである。死に臨んで嘆く者がいたら、その者は知を愛する者ではなく、肉体を愛する者ということになる」
(世界の名著『プラトンⅠ』、pp.504 ~508 )

 これが、魂は肉体という牢獄に捉えられている状態であり、死とは牢獄から魂を解放してくれるのだ、とする「肉体=魂の牢獄」の考え方です。夏目漱石の小説『行人』に、紀三井寺近くの宿に設置されている東洋一と題するエレベーターに乗った主人公と兄との対話に、よく似た考え方が登場します(夏目漱石『行人』岩波文庫、P.119)。

「牢屋みたいだな」(兄)「そうですね」(弟)「人間もこの通りだ」(兄)
兄は時々こんな哲学者めいた事をいう癖があった。

 ソクラテスは、亡くなった偉人たちに死後の世界で会えることを楽しみにしている―そんなこともパイドンに話しています。皆さんはどうでしょうか。