7、ドゥルーズ:リゾーム、プラトー、可能的世界としての他者、そして…

 前回は、お一人のショーペンハウアーの話で、大いに盛り上がりました。特に、孤独をめぐって「孤高」「孤立」などとの比較論議が熱を帯びました。さて、今回は、本人はそのように言われるのが不本意だったようですが、ポスト構造主義の旗手ジル・ドゥルーズ(1925-1995)です。構造に対して流動的な「リゾーム」の概念を提起、ヒューム、ベルクソン、スピノザ、カント、ニーチェといった先達哲学者の考え方を薬籠中のものとし、とくにニーチェの「生成の哲学」を発展させて、孤立しがちな現代人が手をつないで新しい道へと導く方図を示唆しました。

 リゾームは「根茎」、すなわち根っこが地下で分岐して行き、それぞれの先端で芽を出して子孫を増やす地下茎のことです。一本の茎が地上に伸び、それが枝分かれして芽をつける植物のあり方を、中央集権・管理型政治構造のモデルと考えれば、リゾームは独立した個人がそれぞれ花を咲かせながら手をたずさえる分散型・独立型の政治モデルと言えるでしょう。

 ガタリとの共著『千のプラトー 資本主義と分裂症』(河出書房新社)は、一つ一つの根茎が芽を出し、その上に咲く花々を「プラトー」(高台)と名づけています。2007年のこの講座で、受講生たちを独立した根茎と見立て、講座における対話を通じて地上にそれぞれの豊かな花を咲かせて、高台を形成していく有様を、「14人のプラトー リゾームとしての教育の場」(『聖徳の教え育む技法』、聖徳大学、2007.12)のタイトルで発表しました。受講生14人ののなかには、現在も受講してくださっている女性お二人の名前が見えます。

 私的メディアSNSが社会の基層に充満し、現代の私たちは世界中の「個」がインターネットという網の目の中に生息する、リゾームのようになっています。いまや、その網の目から無数のプラトーが出現し、千どころか100万、1,000万、いやそれこそ億単位のプラトーがネット空間に4次元的とも言えるプラトーとなって連なっていると言えるでしょう。

 他者の概念の転換もドゥルーズ哲学では見逃せません。認識において私たちは「既知」から「未知」へ向かうとのヒュームの基本原理(『経験論と主体性』木田元・財津理訳、河出書房新社、p.203)と、「他者とは可能的世界の表現である」、とのミシェル・トゥルニエ(『フライデーあるいは太平洋の冥界』の作者)の視点(『原子と分身』哲学書房、p.28)を取り込み、自己(主体)に対峙する独立した客体とみるサルトルに対して、他者を未知なるがゆえの可能世界の表現と、とらえているように見えます。

 ドゥルーズがガタリとともに書いた大著『アンチ・オイディップスー資本主義と分裂症』(市倉宏祐訳、河出書房新社)において、彼らは資本主義のことを「欲望の機械」と名づけています。

 世界でもっとも貧乏な大統領として知られたウルグアイのムヒカは、欲望によって加速される「ハイパー消費」は「消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れる」と断罪し、エピクロス、セネカそしてアンデスの先住民族アイマラまでが述べている金言「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」(2012年リオでの国際会議でのスピーチ)を引用しています。

 何とも耳が痛いですね。