7、ハイデガー カントは世界という現象を見なかった。

 今回(2013.2.19)は、ハイデガーのこのカント批判を通じて、逆にカントがいま必要な理由を探ってみたいと思います。
 ハイデガーは、道具の使用によって、「私」と「世界」はつながっており、私という存在は世界から独立した何かではないことを示しました。しかし、どうでしょうか。そのことは、私たちが逆に、常に世界にからめ捕られている存在であることを示してはいないでしょうか。
 ハイデガーの根本的な考え方の一つ「ダス・マン」(世人とか《人》などと訳されます)は、私たちが自らの本質である「実存」から「頽落」(落ち込むこと)して、世の中にからめ捕られている存在の在り方を表しています。実存は自由な存在であり、それはサルトルがいみじくも「実存主義」の意味するところを「人は最初から人なのではない。人になるのである」と表現したように、実存者として、人は何にでもなれるのです。
 いま、「頽落」を、世間の縛りへと入ること、すなわち、世間との「縁」を得ること、と解釈してみることにしましょう。生まれ落ちるということは、その途端にさまざまな縁の縛りへと投げ入れられることを意味します。親類という縁、学校という縁、地域という縁、会社という縁、そうした無数の縁とつながりをもちながら私たちは生きていきます。
これは、実存の喪失なのでしょうか。もしそうならば、私たちはどのようなときに「本来の自分」(実存)で在りうるのでしょうか。
 「縁」はからめ捕られた自己であり、一つの不自由の表現に過ぎないのでしょうか。もしそうならば、

2、ショーペンハウエル カントの言う「物自体」とは意志である。 2013.1.15 対話つき

 で紹介した

六車由実『驚きの介護民俗学』(医学書院、2012年3月)

に登場する介護施設の「社会との縁」を消失した人たちは、なぜあれほどの寂寥感へと投げ出されてしまったのでしょうか。それは単に、気持ちの問題に過ぎないのでしょうか。
むしろ実存とは、ハイデガーの言うのとは反対に、「頽落」した状態にこそあるのではないでしょうか。縁から逃れられれば私たちは自由になる、つまり、何にでもなれる「実存」へと戻るはずです。それなのに、なぜ…

 このようなことをテーマに、第七回は展開していくことになります。私たちは、ハイデガーが「空虚な主観」と位置づけたカントの側に、むしろ実存主義では解決できない私たちの在り様を前進させるヒントを見つけることができるかもしれません。

 おおよそ、このような話をしたあと、「自由」とは何か、ハイデガーとカントにおける自由にどのような違いがあるのか、が議論の的になりました。

 ハイデガーの考え方は、私たちが本来の在り方である「実存」状態にあれば、それが自由だと言います。ハイデガーの実存主義を受けた形で文学の世界から実存主義の哲学を展開したサルトルは「人間は最初から人間なのではない。人間になるのだ」という名言を残しました。自由であるから人間になれるのであって、実存を喪失した状態の私たちは、人間性を欠いた非人間に過ぎないことになります。この実存を喪失した状態が、ハイデガー的に言えば「頽落」であり、よく使われる用語によれば「疎外」ということになります。
 これに対してカントは、内なる道徳律(行為の基準)が最高善(神の意図)に一致するときに、人は自由になる、と考えています。日々、最高善に適うように行動を重ねていくことによって、私たちは自由を得る、というのです。自由落下運動(フリーフォール)を考えてみて下さい。このとき、私たちは無重力状態になります。これと同じように、最高善に向かって”落下”しているとき、わたしたちは何物にも捕らわれない自由を獲得することができるのです。なぜならば、私たちは日々の生活において、一切の縛り(欲望や快楽など。悪といっていいかもしれません)から解放されるからです。

 受講生の発言です。
「カントの言う自由とは、欲望からの自由ではないでしょうか」
「ハイデガーとカントの自由は、結局は同じことを言っているような気がします」

 上記の『驚きの介護民俗学』には、民俗学者が老人施設の人たちの心を開くことによって、自分たちの生きざまに価値を見い出し、元気を取り戻した例がいくつも取り上げられていました。これに対して、受講生の一人から「ハイデガーは、私たち社会にいるものは、おしゃべりと好奇心、あいまいさのなかで生きていて、これが頽落の状態であると、言っていた、と、この講座で聞いた覚えがあります。老人施設の人たちは、民俗学者とのおしゃべりによって、迫りくる死を一時的に忘れさせられているだけではないでしょうか」と発言してくれました。

 「頽落」にある私たちの通常の姿を「ダス・マン」と名づけたハイデガーは、その状態にある私たちの特徴として「おしゃべり」「好奇心」「あいまいさ」をあげました。そのことによって、私たちは自己を隠ぺいし、ごまかしと無責任のなかで生きている、と言うのです。
 
 さて、みなさんはどう思いますか。
 
★受講生の方々に、配布するレジメは、次のようなものになっています。

「わたし」と「世界」とは、いかなる意味でつながっているのだろうか。

ハイデガー カントは世界という現象を見なかった。
(『存在と時間(下)』(岩波文庫、p.43)

「なるほどカントは、自我を思考から括りだすことを避けましたが、といって<わたしは思う>自体をば、その全面的な本質の成立内容のなかで、<わたしは何かを思う>として手掛かりをつけることもなく、またことに<わたしは何かを思う>にとっての存在論的「前提」を、自己の根本規定性とみることもしませんでした。なぜなら、「わたしは何かを思う」という手掛かりもまた、「何か(エトヴァス)」が無既定のままだから、存在論的に規定しつくされていないからです。その何かが、内世界的な存在するものと解されるならば、そのばあい口にださないでも、世界という前提がひそんでいるのです。そしてまさにこの[世界という] 現象こそ、それがもしかりに<わたしは何かを思う>といったもので在りうるとすれば、<わたし>という存在構えを、ともに規定しているのです。<わたし=と言うこと>は、「わたしは=ひとつの=世界の=なかに=いる」として、そのつどわたしである存在者を意味しています。カントは、世界という現象を見なかったし、「わたしは思う」の先天的な内実から「諸表象」を遠ざけても、十分に整合的でした。しかしそれによって自我は再び、存在論的に全く無既定な仕方で、表象に伴う孤立した主観へと、押し戻されたのでした」(『存在と時間(下)』(岩波文庫、p.43)

 カントは、「世界の中に私がある」という従来の考え方を、「私の中に世界がある」とひっくり返し、これを「コペルニクス的転換」と称した。しかしこの考え方は、ウイトゲンシュタインの「眼は眼自身を見ることはできない。眼は世界と私との境界である」との考え方と、実は同一線上にあるのである。なぜなら、カントにおいては、私=主観は世界を映す鏡、あるいは世界を入れる容器ではあっても、鏡であり器である私=主観そのものは、その世界の一部にはなっていないからである。ハイデガーの言う「孤立した主観」とはその意味である。
 ハイデガーは、「わたし」というときに、すでにそこには「世界」が含まれているとし、新しい形の私と世界との関係を考え出した。たとえば山奥に一つのダムがあるとしよう。ハイデガーによれば、ダムとは私たちにとって水を貯める道具、すなわち「貯め道具」である。ハイデガーは、このように世界と私とを、「道具の思考」によってつなぎ、新しい形の私と世界との関係を生み出していく。私が水を飲むとき、私はその水を送り出しているダムとつながっている。このように私たちの存在は、すべてが世界そのもののもとにあるのである。事故を起こした福島第一原発が、私たちと電気を通じてつながっていたことが改めて意識されたように、世界は私とともにあるのである。