7、フリーメイソン毒殺説と秘数十八の謎

 あなたがフリ-メイソンの結社員だったとして、モーツァルトのオペラ『魔笛』を初めて観劇しているとしましよう。序曲の冒頭で三回鳴り響く和音を耳にした途端に、それがフリーメイソンへの入会志願者がロッジの扉を3回たたくのを連想して、耳目をそばだてるのではないでしょうか。さらに、いたるところでこのオペラが、フリーメイソンの秘儀を、ほぼそのままの形で明らかにしていることに気づくでしょう。たとえば、第一幕十場で、タミーノが弁者とかわす問答は、フリーメイソン分団への入団志願の際に行われる分団長と志願者との問いと答えをほぼ踏襲したものだとか、第二幕の冒頭で、ザラストロと弁者、僧たちとの質問と答えも、大部分がフリーメイソン典礼書から借りている、などなどです

 きっとあなたは、それだけでも自身がフリーメイソンであるモーツァルトが、秘密にすべきフリーメイソンの秘儀を大衆に晒していることに怒りを覚えるでしょう。しかも、ストーリーが進むにつれて、「このオペラは、フリーメイソンをパロディにして笑い者にしているのではないか」と、席を立ちかねないことになるかもしれません。とくに第二幕二八場の終わりにワインをもらって上機嫌になり二九場パパゲーノのアリア「おいらの望みは、娘か恋女房!」に続いていくシーンは、悪徳の称揚と映るのではありませんか。しかも聞けば、モーツァルトは、なんと自分の分団<洞窟>(グロッテ)を作ろうと画策しているというではないですか。なんという、裏切りも!

 というわけで、「モーツァルト許すまじ」とフリーメイソンの面々が、モーツァルトの暗殺を計画し、水銀中毒で殺すことに成功したーと、これまたすごい筋書きを考えたのがJ・ダルヒョウ/G・ドゥーダ/D・ケルナーの医師三人組です。『モーツァルトの毒殺(Ⅰ)(Ⅱ)』(海老沢敏・飯島智子峡共訳、音楽の友社)。前回、ちょっと紹介しましたが、モーツァルトの死には検死が行なわれた記録がなく、1791年11月と12月の検死記録1760件を調べて、欠けているのがモーツァルトを含め6人しかいないことを見出したのが彼らです。

 彼らはフリーメイソンの秘儀に関係する数を詳細に調べ、<聖なる太陽の数>として大切にしている十八を、モーツァルトが『魔笛』のなかでまるで頻繁に使っていることを発見したのです。ダルヒョウらによると、通常ゾロアスターに関係づけられるザラストロの名は古代ギリシア・ペロポネス半島中部のアルカディア人のザーロス概念(太陽と月が地球から見て同じ位置にくる周期十八年と十と三分の一日)から来たものだそうです(同書(Ⅰ)p.199)。
 
 この十八が、ザラストロの国の僧の数として設定されており、第一幕十四場のパミーナとパパゲーノの二重唱「善人が誰でも」を歌い終わって続くザラストロの勝利の行進曲が18小節、ザラストロがパパゲーノに授ける少女は18歳、水と火の試練の始めの弦による五重奏の前に十八の音符がある(第二幕三十三場)、さらにフリーメイソン的思考によると、夕方の18時は次の日の始まりになる、という解説までダルヒョウらはつけています。興味のある方は、楽譜を見ながら音符や小節を数えてみてください。

 さて、ではモーツァルト自身を含めて関係するフリーメイソン結社員をあげてみましょう。

●ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。1784年12月14日、フリ-メイソン分団<善行>に徒弟として入団。翌1785年1月7日、職人となり、同4月22日にはもう親方分団に出席し、親方となる「わずか数か月での思想上の電撃的昇進」と、ドイッチェらは驚いている。<善行>の分団員は、あの秘数十八に関連するかのように180人。死ぬ前に自身の分団<洞窟>(グロッテ)を作ろうとした。
●ゴットフリート・ヴァン・ヴァン・スヴィーテン男爵。モーツァルトの葬儀を取り仕切る。フリーメイソンの宮廷図書館長とされる。
●アントニオ・サリエリ。いわずとしれたモーツァルトを毒殺したとして、噂が広まった疑惑の人。
●ヴァルゼック伯爵。モーツァルトに『レクイエム』を依頼した人物。フリーメイソンであるとの直接の証拠はないが、ダルヒョウらは「彼が大がかりな反モーツァルト共謀者サークルの人物である」(『モーツァルトの毒殺(Ⅱ)』p.368)とし、『レクイエム』の依頼はモーツァルトにやがて来る死を示唆するためだ、と見る。
●シカネーダー。『魔笛』の第一回公演のプログラムに、モーツァルトが「真の兄弟愛からわたしの一風変わった作品に素晴らしい作曲をしてくれた」と書いていることが、彼もフリーメイソンであることを代弁している、とダルヒョウらは指摘する。

 ミラノに定住していた息子カール・トーマスの遺物から、イタリア語で書かれた父モーツァルトの死に関する宛名もない抹消や訂正の多い覚書が見つかっています。そのなかで、彼はモーツァルトの死の前後の状態について「死の数日前、病人のほんのわずかな動作をも困難にした非常な全身腫脹と、さらには体内部の解体を示し、死後すぐにますます強烈になった悪臭が現われ、その結果死体解剖が不可能となったことである。もう一つ特に目立ったことは、遺体は硬直もせずまた冷たくもならず、ガンガネリ教皇や植物の毒で死亡した人の場合と同様に、どの部分も柔らかく弾力性をおびていたことである」と書きとめているそうです(同書pp.313-314)。

 1791年11月18日に、モーツァルトは<新冠の希望>(旧<善行>)第二会堂の落成式のために、十八葉(36頁)の小カンタータ『われらが喜びを高らかに告げよ』k.623を作曲しました。「太陽神ラーに捧げた古代エジプトの賛歌に似た」曲(ダルヒョウ)で、そのすこし後に、モーツァルトはベッドから離れられなくなり、ひどい体の腫脹が現われ、十八日目の1791年12月5日に死ぬことになります。

 この十八は偶然なのでしょうか。水銀(マーキュリー)は、ローマ神話のマーキュリーに捧げられ、中世の錬金術では天体の水星(マーキュリー)には八という数字が対応するそうです。そして、八はまさに秘数十八に内在しています。ダルヒョウらは、この数字の解釈を「一見まるきりこじつけで不自然に見えるかもしれない」としながら、これこそが数世紀前までの教養人の考え方だった、とし、ダルヒョウらはモーツァルトは水銀をもられ、死亡したと、結論づけるのです(同書(Ⅰ)pp.203-206)。

 ただし毒を盛った者がだれかについて、ダルヒョウらは何も述べていません。彼らは、モーツァルト自身が自己の運命として、死を甘んじて受け入れたのではないか、とも示唆しています。さて、ダルヒョウらの説を信じるなら、あなたはだれが実行犯だと思いますか。