7、モーツァルトの「赦し」の思想
『フィガロの結婚』の初演時に、バジリオ(音楽教師)役とドン・クルツィオ(裁判官)役を演じたマイクル・オーケリーの証言は、当時、どのようにこのオペラがウイーンの人々に受け入れられたかを示す良き資料と言えるでしょう。初演の時の出演者は、彼を含めて全員がモーツァルト自身から「稽古をつけてもらう特典」に浴したと言います。ある晩オーケリーがモーツァルトの家に行くと、「ちょうどオペラに組み入れる小二重唱が出来上がったところなんだ。聞いてくれよ」と言われ、モーツァルトのピアノにより二人で歌ったそうです。それはアルマヴィーヴァ伯爵とスザンナの二重唱「ひどいぞ。どうして今まで私を…」で、オーケリーは「これほど魅惑的な曲は他の誰も書いていない。私がこの曲を聴いた最初の人間で、しかもあの才能豊かな作曲家と一緒に歌ったのだということは、しばしば私にとって、あふれくる喜びの源となった」と書いています。
オーケリーによると、オーケストラが全員揃っての最初の稽古のとき、モーツァルトは鮮紅色の外套と金モールのついた山高帽の出で立ちで舞台に立ち、団員たちにテンポを指示していました。フィガロ役のベヌッチが「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」を歌うと、オーケリーのすぐ脇に立っていたモーツァルトは何度も小声で「ブラヴォー!ベヌッチ」と何度も言い、ベヌッチが「ケルビーノ、勝利と栄光の…」を歌った時には、舞台上の全出演者とオケの全団員が「ブラヴォー、ブラヴォー、マエストロ! 万歳、万歳、偉大なモーツァルト!」と拍手喝采が鳴りやまなかったと言います。オーケリーは、フィガロとマルチェリーナが親子であったことがわかる裁判の場面、第三幕の六重唱で、裁判官ドン・クルツィオのセリフを訛って話すことを提案し、モーツァルトにその効果を褒められた、と書き、この六重唱はオペラ『フィガロの結婚』の中でモーツァルトが一番好きだったと言っています。
ところで、モーツァルトが『フィガロの結婚』で最も描き出したかったのは、何だったのでしょうか。「女はみんなこうしたもの」に象徴される男性たちの女性不信や、封建領主と使用人との多彩な人間関係模様、などもテーマの一つでしょうが、最大のテーマはある種の「赦しの思想」だったと思うのです。
スザンナと伯爵夫人との入れ替わりによって引き起こされるドタバタの最後は、伯爵夫人に赦しを乞う伯爵のシーンでいよいよフィナーレを迎えます。「伯爵夫人よ、許してくれ!」「私はあなたより素直ですから、はい…と申します」。この二人の短い会話のメロディーの美しさは、深い感動を呼ぶ比類のないものです。わずか10小節あまりのこの部分に、『フィガロの結婚』のすべてがあるといっても過言ではないのではないでしょうか。
そして全員による「赦しましょう」の合唱が続き、「苦痛と気まぐれで過ごした今日一日、喜びと満足で締めくくるのはただ愛だけ!」と大団円の華やかなエンディングとなります。「究極の愛のかたちは、赦しによって完成する」-これがモーツァルトの訴えたかったことだと思うのは私だけでしょうか。