7、モーツァルトの処世術

    ああ、なんという愛(いとし)い人なのでしょうか。

 今回(2013.3.7)は、モーツァルトや父・レオポルトの手紙を通じて、当時の日常生活がどのようなものであったのか、いくつもの疑問が出されました。

 モーツァルト一家の間で交わされた手紙は、実に膨大な量にのぼります。当時はそんなに簡単に紙が手に入ったのか、同じく消耗品であるインクやペンに不自由しなかったのか、というのが第一の疑問です。
 次が、それらの手紙を運んでくれる郵便システムは、いかなるものだったのか、郵便局のようなものがいつでもどこでもあったのか、という疑問も当然ながら、出ました。
 さらに、ザルツブルクから、パリ、ロンドン、ローマなど、ヨーロッパをモーツァルト一家は、あるときは家族4人で、あるときは父子で、またあるときは母子で旅を重ねたわけですが、そのための資金を降ろしたり、あるいは通貨を交換したりの業務を行う銀行は、どの程度発達していたのか、という問いもでました。
 さらには、モーツァルト親子の間の手紙には、薬として黒色火薬からニワトコまで、現代の私たちには簡単には理解できないものが、いくつもあげられています。いかなる薬効があって、こうしたものが薬として使われていたのでしょうか。

 にわかに答えられない問題がたくさんです。みなさんのおしゃべり力が一気に噴き出してきたので、いろいろ調べてみたいと思います。しばらく、お待ちください。

★受講生の方々には、以下のモーツァルトの手紙部分をお配りしました。

 「この人(グリム)がー以前の彼と同一人物であるとは想像しないでください。…本当に蹴飛ばしてもいい奴です。-彼はぼくの誠実さを信じていないし(それこそぼくを激怒させることのできる唯一のことです)、それに、ぼくの才能にも不信を抱いているのですから。…というのは、ぼくがフランス語オペラなど書けるとは思わないと、いつか彼自身ぼくに言ったことがあります。…亡くなったお母さんは、よくぼくに言いました。『わからないね、あのひとはーまるで別人のようだわ』。でもぼくは、内心もっともだと思いながらも、いつも彼の肩を持っていました。彼はぼくのことを誰にも話さなかったし、-また話したとしても、いつも、どじで、下手くそで、-陰険な語り方でした。…要するに、彼はイタリア派でー見せかけだけの人でーぼくを抑えつけようとさえしているのです。とても信じられないでしょう?-でもそれは本当です。ここに証拠があります。ぼくは彼に、本当の友だちとして、心のうちをすっかり打ち明けてきました。‐そこで彼はそれを巧みに利用したのです。ぼくが彼に従うことを知っているので、いつも悪い助言をしていました。…さて、こんなことうんざりですね。」(パリからザルツブルクの父へ。1778年9月11日)
 「ぼくはれっきとしたモーツァルト、若くて思慮深いモーツァルトです。ですから、熱中のあまりときどきはめをはずすことがあっても、お許しいただけると思います。…ぼくにはいろいろと欠点がありますが、なかでもこういう欠点をもっています。つまり、ぼくを知っている友人たちは、ぼくをわかってくれているのだ!-だから多言を要しない、と常に信じてしまうことです」(マンハイムからザルツブルクの父へ。1778年2月22日)
 「ご存知の通り、最上の最も真実な友は貧しいものです。-富めるものは友情の何たるかを知りません!-ことに生まれつきの金持ちは。-そして運よく金持ちになった者も、幸運な人生にあるときは時として我を忘れます!しかし、まぐれ当たりではなく、正当な成功と、-功績によって、有利な境遇に置かれた者、…良きキリスト教徒であり誠実な人間であった者、そして真の友人を尊ぶすべを知った者、つまり本当によりよい幸運を受けるに値する人であったならば、-このような人からは怖れるような不快なことはありません!」(パリから、ザルツブルクの友人ブリンガー師に。1778年8月7日)
 「彼の心はとても純粋で、うぶであり、私に対してまことに誠実なので、自分の父親に対してはもっとそうでしょうし、そうであるはずに違いありません。彼の話をじかに聞けば、だれが彼に対して公平な態度をとらないでおられましょうか。この上なくすばらしい性格の持ち主として、正直この上なく、誠実なかぎりの人間としてです。でもこの世のなかにこんな人間がどれほどたくさんいるのでしょうか? 最良の父親であられるあなたとあなたのお二人のお子様は、こうした賞讃、こうした讃美と名声に値するかたなのです」(ミュンヘンのフルート奏者ベッケから、ザルツブルクの父・レオポルトへ。1778年12月28日)
 「ヴィーンでは、ぼくのほうが大司教よりも尊敬されています。彼は当地の人を誰彼なく軽蔑する思い上がり屋、うぬぼれ屋の聖職者として知られています。-そして、ぼくはと言えばー好ましい人物として見られています。それは、本当です。もし誰かがぼくを軽蔑し、小物扱いしようとすれば、ぼくは尊大になります」(1781年5.26~6.2 ヴィーンから、ザルツブルクの父へ)
「今度の事件がウイーンで起きたのは、大司教に原因があるのであって、ぼくではありません。もし大司教が才能ある人たちの遇し方を知っていたら、これは起こらなかったでしょう。『そう』伯爵は言いました。『大司教はきみをひどく高慢なやつとお思いですぞ』―「そうでしょうとも」ぼくは答えました。-伯爵。ぼくはこの世でまたとないお人よしですよーもし人がぼくをそう扱ってくれさえすれば。…ぼくは人の対応次第で、同じように対応します。-もし誰かがぼくを侮辱し、軽蔑しているとみるや、ぼくは狒々のように高慢ちきになることだってできます」(1781年6.2 ヴィーンから、ザルツブルクの父へ)
 「お前の弟が家に必要な家財道具一切合切がついた立派な住居を持っていることは、家賃を460フローリンも支払っていることからお前にも分かるでしょう」(ウイーンの父からザルツブルクの姉ナンネルあて。1785年2月26日)
 「私の現状は、どうしても借金せずにはいられないほど困窮しています。-でも一体、だれに頼ったらよいのでしょうか?あなたを措いて、最上の友よ、ほかにだれひとりいません!-せめて友情の表われとして、別の方法によってお金を調達していただけたら!-むろん、利息も喜んでお支払いしますし、それに私に貸してくださるかたには、もちろん私の性格と年俸とが充分にその保証になると信じています」(ウイーン。プフベルクあて。1788年6月27日)
「家計がぎりぎりまで追いつめられて、心労と不安が絶えません。そこでいまはこの二枚の質札を、なにがしかのお金に替えられるかどうかにかかっています」(ウイーン。プフベルクあて。1788年七月初め)
 「ぼくの宮廷努めの件についてお答えすれば、皇帝はぼくを御自身皇室にお抱えになられた、つまり正式に法令で布告されたのです。でも、さしあたってたったの800フローリンです。-とはいえ、だれも皇室でこれだけ多くもらっている人はいません」(ヴィーンのモーツァルトからザルツブルクの姉・ナンネルにあてた手紙。1788年8月2日)