7、ヴォルテール「この神童がジュネーヴの暗い地平線に輝きを放ったときには…」

 ロンドンを発ってから再び故郷ザルツブルクに戻ったのは、1766年11月29日のことでした。1763年6月9日に始まった西方への大旅行は、実に3年6ヶ月もの長大なものになったのです。この間にかかった費用は、レオポルトの年俸450フローリンの実に40倍を越える2万フローリンになったと推定されています。

 しかし、多くの王侯貴族の知己と、訪れた街々における人々の歓迎・評判は、我が子ヴォルフガングの天才を世に知らしめたいとのレオポルトの想いを満たして余りあるものでした。金銭の下賜だけでなく宝石・装身具類の数々は、十分に報われて余りあるものであったと推定されるのです。

 ロンドンからオランダに渡ったモーツァルト一家は、再びパリを経て、ブルゴーニュ・ワインの産地ディジョン、さらにはグルメの町として名高いリヨンをまわり、スイスのベルン、チューリッヒ、そして、もう一度レオポルトの故郷アウグスブルクを抜け、ミュンヘンを経てザルツブルクに帰ったのでした。

 オランダのデン・ハーグで、ナンネルとヴォルフガングの二人が死線をさ迷う重病にかかりましたが、それも幸いにして全快し、各地で演奏会が行われたのです。アムステルダムでは(1766年1月29日)、デン・ハーグで作曲した交響曲第五番変ロ長調k.22がヴォルフガング自身の指揮で演奏されています。

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 モーツァルト一家は、この最後の西方旅行の行程で、さまざまな歴史上人物と交差しています。なかでも、もっとも大立者は、フランスの啓蒙思想家で、プロシアのフリードリヒ大王(2世)のところまで足を運んで、王を啓蒙君主へと導いたヴォルテール(1694-1778)でしょう。

 レオポルトは1766年11月10日の家主への手紙(ミュンヘンから)で「有名なヴォルテール氏がジュネーヴのすぐ外に城館を持って住んでおり、これがフェルネーと呼ばれることはたぶんご存知になられるでしょう」と書いています。ヴォルテールも、神童のモーツァルトが近くにやってくることを知っていて、会えるのを楽しみにしていたらしい。しかし、あいにく体調を崩し、実現しなかったことを残念がり、グリムのパトロンであるパリのデピネー夫人に次のように書いています。

「…夫人よ、あなたの小ちゃなマザール(Mazar)が不和の殿堂に諧音をもたらすにはあいにくの時だった、と私は思っています。私がジュネーヴから二里のところに住んでいるのはご存知でしょう。私はまったく他出しませんし、この神童がジュネーヴの暗い地平線に輝きを放ったときには、私は重い病気でした。けっきょく、たいへん残念なことでしたが、会わないうちにあの子は発ってしまったのです」
 
 ちなみに、まだロンドンにいるとき、英国王妃シャーロットに『クラヴィーアおよびヴァイオリンあるいはフルートのためのソナタ』(変ロ長調k10、ト長調k11、イ長調k12、ヘ長調k13、ハ長調k14、変ロ長調k15)六曲を献呈しています(1765年1月18日)。長文のフランス語によるヴォルフガング名の献辞がつけられており、「私はヘンデルのごとく不死になりましょう」など、強い自負を示したものになっています。