7、白川静の孔子伝―夢と影と

 孔子(BC552-479)が生きた春秋時代は、周王朝の力が衰え、孔子が生まれた魯のほかに十余国が乱立する諸侯の時代でした。司馬遷によれば、孔子は相当の家柄の武人の子(『史記』「孔子生家」)、とありますが、白川静は「司馬遷の筆にふさわしくないほど一貫性を欠き」「稚拙な小説」類の箇所も見られる、などと、その家系の信憑性に疑問を投げかけ、「卑賤の出身」とくに「巫女の庶生子」であると断じています(白川静『孔子伝』中公文庫、p.21))。

 白川はさらに「『史記』などにある孔子の先祖物語はすべて虚構である」(p.26)とし、「名もない巫女の子として、早く孤児となり、卑賤のうちに成長したことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない」(同)と書き「貧賤こそ、偉大な精神を生む土壌であった。孔子はおそらく巫祝者の中に身をおいて、お供えごとの『俎豆』の遊びをして育ったのであろう」と推測しています(同)。「俎」はいけにえを載せるまな板、「豆」は野菜を盛るたかつきのことで、この時代の中国の祭器を意味し、転じて礼法そのものを指す言葉になりました。

 白川は「私には、孔子の前半生を、貧窮と苦悩のうちにとじこめておくのが、最もよいように思われる。そしておそらく、それは事実であろう」(p.26)と繋いでいます。

 「おそらく四十もかなり過ぎたころ、多少の弟子ももっていた」孔子が「一躍にして世人の注目を浴びるようになるのは、魯に内乱的な状態が突発したとき」で、政治を牛耳っていた三家に陪臣の陽虎らがクーデターを起こそうと孔子を招いたことにある、と白川は見ます。そのとき、「孔子のもつ影響力は、おそらく巫祝社会を中心として、祭司者の知識社会全体に及んでいたであろう」(p.28)と白川は推理します。

 69歳で祖国に帰るまで、孔子は「衛」「宋」「鄭」「陳」「蔡」「楚」と亡命の旅を余儀なくされます。『史記』によれば、衛の霊公(BC534-493)が粟6万石で抱えたが、見張りをつけられる状況に10ヶ月で逃げ出し、宋では大樹の下で弟子と礼の学習をしている最中に殺されそうになって弟子とばらばらになり、陳に3年いて、また衛に戻ったが霊公が耳を貸さないことからまた陳に、そして次は蔡、そしてまた衛に戻り、69歳のとき母国・魯から召還のしらせが届いて帰郷する、とまあ、ずいぶんいろいろありましたね。重用されるかと思うと恐れられ、各地を転々とせざるを得なかったのは、孔子の理想主義に各国の為政者が着いて行けなかったことがおそらくは原因でしょう。

 孔子は、同じ魯の出身で殷王朝のあとの混乱をまとめて周王朝を築いた周公を理想の聖人としてあがめ、「夢に出てくるのはいつも周公であった」(p.56)といいます。晩年のある日「甚だしいかなわが衰えたること。久しいかな、われまた夢に周公を見ず」(述而第七)と孔子は嘆きました。

 白川は、ソクラテスを並列させながら、「亡命以来22年の間、孔子は一つの声と、一つの影の中で暮らした。…人は誰でもみな、そういう声を聞き、影を見ながら生きる」(p.62)と結語しています。声とは周公、影は「陽貨第十二」に登場する陽貨すなわち陽虎である、と白川は見ますが(p.57)、さて、皆さんはどう思いますか。