7,抒情詩人、ディオニユソス、津軽海峡冬景色

 前回、ワーグナーの芸術論について、興味深い皆さまのご意見をいただきました。「視覚芸術は認識を通して間接的に世界を把握するのに対し、音楽は聴覚を通じて直接世界を把握するとワーグナーは言っているが、川村記念美術館に展示されているマークロスコの作品を見ることをお薦めする。この作品のある部屋に入ると、あたかも彼の絵の世界と直接一体化するような感覚にとらわれる」

 「石川さゆりの津軽海峡冬景色を聞いてください。音楽が迫ってくるのは耳からだけではない。詩が直接我々にその世界へと連れ出してくれる」「郷愁というのですかね。私は東北出身だから、津軽海峡に降る雪を連想して、胸が熱くなる」

 お一人の「詩が導く抒情的世界」が、本日取り上げる「五 抒情詩人の解釈」(『悲劇の誕生』岩波文庫、pp.67-76)とつながるのは、何とも嬉しい話です。
 
 ニーチェはここで、歴史や神話を題材に強弱弱調ダクテュロスの抑揚で語っていく叙事詩吟遊詩人(一説に盲目)の大家ホメロス(~BC8世紀末)に対して、人生の艱難・辛苦を弱強調イアンボスの抑揚で歌い上げる抒情詩人アルキロコス(∼BC680~∼BC645)を取り上げています。

 「ホメロスとならべてみた時、ほかならぬこのアルキロコスは、その憎悪と嘲笑の叫びによって、その欲望の酔っぱらった爆発によって、われわれを驚かせるのです」(『悲劇の誕生』「五 抒情詩人の解釈」P.68)と書くニーチェは、詩作の過程についてシラーが語った「詩作に入る準備的状況は、思想なんかではなく音楽的な気分だった」(同p.69)を引用します。

 そして、テーバイの王ペンテウスがディオニユソス祭の狂乱状態の中で母たちに八つ裂きにされるエウリピデスの悲劇『バッカスの信女』を「陶酔した熱狂者」アルキロコスに重ね、次のように抒情詩人の世界を描き出すのです。

 「抒情詩人は、ディオニユソス的芸術家として、根源的一者と一体になり、根源的一者の苦痛・矛盾と完全に一つになっている」(同p.69)「従って、抒情詩人の『私』は存在の深淵からひびいてくるのである」(同p.70)

 この考えのもとになっているのは、またもや『意志と表象としての世界』からのショーペンハウアーの音楽形而上学です。「歌うものの意識を満たしているのは、情念・情熱・動揺した情緒状態の意志の主体であり、歌謡と抒情的気分においては、個人的な関心と目の前にある環境の純粋な観照とが、異様に雑然と混合している。混ざりあい分裂した情緒の状態のすべてを写したものが、真の歌謡にほかならない」(同p.73)

 哲学的で言い回しが難しいだけで、言っていることは「歌い手」と「聞き手」が心の「原風景」を共有し、「根源的一者」に重なり合う、ということです。これこそ、まさに「津軽海峡冬景色」の世界ですね。

 この曲は、作詞家・阿久悠のコンセプト「少女が恋をして1人の女性へと成長していく1年間」による三木たかし作曲の12月版で、「若いころに乗った青函連絡船の、雪がふぁーと降ってきた光景の想いが湧き出て、5分くらいで出来上がった」(三木たかしインタビュー「LIBRA vol.5 No.9 2005.9」そうです。

 次回から、ディオニユソス的芸術の根源、ギリシア悲劇の実相を見て行きます。