7,読書は私一流の本気から休養させてくれるものである

 前回の、気候と天才との関係を主張するニーチェの考え方は「アテネやフィレンツェなど、過去に天才を輩出したとしても、現代を含めて、その後はとくにそのような天才たちが出てこないことが説明できない」と一蹴に付されました。「そもそもニーチェは梅毒に侵されたことからくる肉体的・精神的な状況によって、思考に大きな波がある。彼の哲学は、梅毒が生み出したものといっても過言ではない」との大胆な主張も出されました。
 
 本日は、ニーチェの、これまた独特な読書論がテーマです。
「仕事に熱心に没頭している時間に、私は手元に本を置かない」(『この人を見よ』「なぜ私はかくも怜悧なのか」三、p.55)と語り始めるニーチェは、その理由として、「読書とは誰かが自分の傍で喋ったり考えたりすることではないだろうか」(同)と、奇妙とも言える理由をあげるのです。つまり、本を脇に置いておくと、誰かがそばにいて、話しかけ、邪魔されるような気分になり、仕事に集中できない、ということなのでしょう。それは、「自分に無縁な何かの思想がこっそり城壁を乗り越えて入ってくることだ」とまで言うのです。
 
 しかし、仕事から離れると、「休養の季節がやって来る」(同)と言い、読書とは「私を私自身から解放して、自分とは無縁な学問や魂の中を私に散策させてくれるもの」(p.54)になる、と言いのけます。その「自分を解放してくれる」書物は、ドイツにはなく「フランス的教養しか信じない」(p.56)と語り、パスカルを「愛している」と言い、モリエール、コルネイユ、ラシーヌ、さらにはモーパッサンの名をあげ、そして、「私の生涯における最も美しい偶然の一つ」としてスタンダールをあげるのです。

 彼がナポレオンのことを「爪によってナポレオンを知る」と述べたことをもって「並みの評価の及ばない存在」(p.58)とまで持ち上げています。ナポレオンのことを知るには、小さな行為ですべてわかる、ということでしょうか。さらに、スタンダールがフランスでは珍しい無神論者であることも挙げています。

 無神論者といえば「カルメン」の作家プロスペル・メリメ(1803~1870)の言葉「神がなし得る唯一の弁解釈明は、神が存在しないことである」を引用し、「最良の無神論的警句」(p.58)であると持ち上げ「これは私こそが吐き得たと思われる言葉であって、彼に横取りされてしまったのだ」とまで言い出す始末です(同)
 
 今回も、「病による思考の爆発」を思わせる、ニーチェの読書論ですが、彼に対抗して皆さんの読書法と読書哲学を、紹介していただくことに致しましょう。まずは私の重要な読書対象であるプラトンの『国家』における私自身の読書法を紹介いたします。

 ご覧のように、岩波文庫版にたくさんの付箋が挟み込んであります。我ながらあきれることに、すでに一冊の岩波文庫版を読んでいたことを忘れて、新しいものを購買し、またまた付箋攻めにしているのです。「休養」と称するニーチェに対して、私の読書法は「格闘」と言って良いでしょう。さて、皆さんは?