8、「カイロス」がもたらすものとは何か
前回は、AIが「確率」と「差異」を駆使して、人間の能力を上回っているのではないか、が示唆されました。囲碁のような場合、過去の膨大な棋譜データを解析し、無数の手の可能性の中から、最も勝つ確率の高い手を選び出しているのではないか、と推測されました。
顔の識別の場合は、対象となる人物と比較して、変装した顔から基本的な相貌との差異を図り、同定していく、と推察されます。受講生のお一人が引用したドゥルーズ(1925-1995)は、差異の哲学を構築したフランスの哲学者です。AIと人間が融合したチャッピーのような存在を、ドゥルーズはニーチェの超人にたとえ、この人間と機械の間に形成された人工生命を、極限の存在を証明できない「極限なき有限者」と呼んでいます(小泉義之『ドゥルーズの哲学』(講談社学術文庫、p.186)
さて、今回は、日能研が宣伝文句に掲げた「カイロス」(日経2016.6.7)をテーマに話を進めたいと思います。直線的に流れる時間「クロノス」に対して、「カイロス」は繰り返される円環的な時間であり、「クロノス」時間はコンピュータ的・経済的な価値観に通じ、「カイロス」時間は人間的な価値観に通じる、とするのが、日能研の描く図式です。このわかりやすく単純化された図式の是非については、皆さんのご議論を待ちたいところですが、カイロスの本質的な意味をここでは正確に把握しておきたいと思います。
お配りした『ギリシア語辞典』(古川春風編、大学書林)から、まずは「カイロス」(καιρός)の意味について確認しておきましょう。①時、時期、機会、決定的な時、好機 ②役に立つこと、有用、適切、うまくいくこと ③適度、もっともな点、区別(する点)④急所
ここから、カイロスは時間的にも空間的にも、「何かをする調度良いポイント」であり、それは環境と自己との状況に左右されながら、一回限りではなく巡ってくる円環的な時の一瞬であること、がわかります。『新訳聖書』には、カイロスが至るところに登場し、その概念を私たちにわかりやすく示しています(以下の「時」はすべてカイロスの訳語)
「時は満ちた。神の国は近づいた」(マルコ1.15)「その時はいつであるか、あなたがたにはわからないからである」(マルコ13.33)「それはお前が、神の訪れの時を知らないでいたからである」(ルカ19.44)
ゴルギアスは流れ来るプラトン的な時間を否定し、「一瞬の時」が時間の本質であり、プラトンが導出した時間のイデアとも言うべき「永遠」に真っ向から異を唱えたのです。 プラトンは、真・善・美といった徳性は、変わることなき永遠のイデア・唯一性を持つと主張しましたが、ゴルギアスによれば徳の表れも、状況やその人によって異なるのです。
「カイロスとは単に実践生活のなかでの有利な時や、そうした時を捉えるための技術のことだけを言うのではないし、さらにまた、弁論で即興に熟達していることを言うにとどまるのでもない。カイロスこそは時間の本性を決定するものなのであり、すなわち、カイロスはアトム化された時間という概念を形成するのである」(ジルベール・ロメイエ=デルベ『ソフィスト列伝』神崎繁/小野木芳伸訳、白水社、p.63)
超人の登場も、神の訪れも、大いなる循環の「好機」の一つに過ぎないのでしょうか。